わが内なる差別主義的なもの、及び排除

趣旨として「相手が自分のモードに合わせて当たり前」ってのがおかしいのでは、と書いてきたんですが、結局の所、人間ってのは自分が理解できない者に対しては不快感と恐怖心を持ち、それを排除しようとします。私もそうです。私も「相手が自分のモードに合わせて当たり前」っていう人を正直排除しようか、と思ったことがないわけではありません。無意識のうちにそれをやっちまってるところはあります。
なんのことはない。私の中にも差別的要素はあります。自ら多様性のある社会が望ましい、とか過去記事で云っておきながら「なんとなく」差別的思考してるんですからお笑いなんですけど。
たぶん、異性愛者の方が持つ、同性愛者に対する差別的感情があるとするならば「なんとなく理解できない」ところに起因してるのかな、とはおもいます。
でもってその「なんとなく理解できない」ということを解消してもらおうと、差異がある事を認めて貰うというか(理由は単に私が「同性愛者も異性愛者も人間を愛してるんだから同じじゃないか」というものに対する反発であったりするのですが)拙いながらも書いてますが、ある特定の区分の人を排除しようとしてることで差別的要素がないわけではないわけで、ほんとは大きな口は叩けません。


で、差別は良くないという立場からは「相手が自分のモードに合わせて当たり前」というのはほんとは排除したらアカン気がしますが、生理的にダメかも知れません。自分がされたわけでもなく他人がされただけでも、落ち着かなくなります。受容しようにも自分の確固たる動かしずらい認識とか、譲れない線というのは無に出来ないです。また「同性愛者も異性愛者も人間を愛してるんだから同じじゃないか」が「相手が自分のモードに合わせて当たり前」というのと差異があるのに差異の個別性を無視してるところで根は同じに見えて仕方なく、根が同じと思う故に同じ振る舞い(「相手が自分のモードに合わせて当たり前」)はしたくないとおもいつつ、されたくないので排除しようとか考えちまうみたいです。
一つを選び取るという選択はそこで選ぶものに対する信頼性が成立していなければなりません。何かを受容するとき、残り全てを棄てるわけではないものの、表面をなぞるだけではないのならばそこにある程度の信頼性がないと厳しいような気がします。「相手が自分のモードに合わせて当たり前」というのが、そこに居る人の意思を考慮してない可能性が高い以上は生理的に排除したくなるのです。


相手を知りたい、尊重して理解したいという気持ちを持つことは忘れたくないですし、自らは多様性に寛容でなければならないし、相手の多様性を知って、違いに耐えることは重要だとおもっています。ものごとを知り、かつ、いろんな視点からの捉え方を知りたいと思って、ネットを彷徨ってはいますが、差別的なものを自分の中で捨て去ることは難しかったりします。

どうみても私は差別主義者のようです。