曲がりなりにも私は大人です。社会にでてる以上はそれなりに周囲に合わせて折り合いをつけて上手くやっています。つか、やってるつもりです。見た目は平々凡々なサラリーマンだと思います。たまに平々凡々じゃ無いときがあったりします。自分の性癖とかです。性器に執着してる人を見て自覚したんですけど私は性器そのものにあまり関心が無いですし執着も無いし、巨乳にも憧れないしイケメンとかってのに憧れないのですけどそれも普通からは少しずれてるでしょう。ただ、自覚してるのですけど、脱がされながら同性にキスされてちょっと恍惚としてるときとか、あ、どこか自分が異質なのかな、と思えるときがあります。目隠しをしてってのもやったことありますけど、たぶん成人男子が目隠しをして他人に抱かれるってのは、どっかちょっと逸脱してるんかなと。



普通誰もが初体験の日とかは、親になんかは云えないとおもいます。何食わぬ顔をして自宅へ帰ったでしょう。性とか恋愛の場合、そこらへん妙な『隠さねばならない』幻想があるきがします。や、幻想じゃないのかな。


自分の性器がCutで周囲がUncutだったときにその差異を指摘されるのが恐怖だったのですけども。他人と差異があることにどこか恐怖を覚えるんじゃないかと思うのです。また、制服フェチである人がいて、「カフェや駅員の制服を着けるとかっこよく見える」とか、目で追ってしまう、ってことがあって、けど制服じゃなくって私服になるとどうってことないらしいんですが、それを具体的に説明しずらいところがあると思います。感覚の問題になっちまうのでしょうけど。差異が他人とあり理解を得にくいってことに、どこか恐怖のようなものを覚え、他人にいえなくなるんじゃないかと思います。
性の衝動がちょっと、通常と違うところに起因するとき、さらにそれがわかって貰えにくい。私は児童性愛ってのがよくわからないし、もっといえばSMもよくわからなかったりします。両方とも痛々しいし、それを好きこのんでビデオや同人誌をみたり、実際にしたりするのがちょっと判らない部分が有ります。ただ、そこに性的衝動を覚えて仕方がないんだろうなということだけはわかるんですけど。のっぴきならない衝動を抱えている人たちってのが、いるのは確かだと思います。
小児性愛や制服フェチ、SMにせよ、レズ・ゲイ的性向もそうでしょうけど、人によっては趣味ではありません。趣味のような他の選択もあるのに選んだのではなく、その人固有の、ちょっと避けにくいものであったりします。のっぴきならない衝動を抱えてなくても、軽い執着を内心燃やし続けてる人はいるでしょう。


大多数のなかの少数というのはこころぼそい。少数派の悲劇というのはそこらへんにあったりします。とくに恋愛や性に関することは、なおのこと。

私は周りの人とは違うって云えば楽でしょう。自分は異質ですって云えれば楽かもしれない。
ただ、環境に適応できない特性を持ってる個体は次第に淘汰されていくって生物では習ったのですけど、淘汰されないようにがんばらないと、まずいってのがどこかあります。環境に適応しなきゃ、社会に自分を合わせなきゃ、なのです。
世の中には様々な常識があふれていて、それは分野ごとに異なるんだろうけど、ある分野に所属する限りはその常識に対して極めて厳格に接しなければならないんだと思うのです。なぜって、まず、社会に属して社会に参加する一市民で居たいから。なので、普段はずっと、「どこか性的に逸脱してない自分」をなるべく偽装しています。
自分は完全な普通なのだとも異質なのだとも思えないものの「平凡なサラリーマン」と「どこか異質で性的に逸脱してる自分」の谷間を行き来してて、偽装がちとしんどいな、と思うときがありますけど。


余談ですが。
異性愛者も同性愛者も同じ人間なんだから同じじゃねーか、という言説に私は未だにかなり抵抗があるし、差異はあるはずで一緒くたにしてくれるなよ、とおもいつつ、私は自分が少数派であるとか、異質であるってことを、どこかいいわけのような何かの逃げの手段として少数派が強調してる場合、引っ掛かりを覚えないわけではなかったりします。
異質であるってことを、どこかいいわけのような何かの逃げの手段としてる場合、それは社会の中で本とは他人と最低限あわすべきところをあわすのがめんどくさいだけちゃうんか?と、おもえるからなんですけど。ダイエットしなきゃいけない人が私は○○だからってだらだらしてるのと同じ甘えのにおいを感じるのです。