自己決定って何かと問われたら、それは自分がどういうふうに行動するかについての、決定という文字どうりの意味合いがまず第一に浮かぶでしょう。自己決定の結果が他人の権利と抵触する場合には、権利は制約されます。喫煙の自由も自己決定権の一種として論じられることがあるのですが、たばこを吸わない人の嫌煙権との関係では、制限されることがあるはずです。つまるところ新幹線の中の禁煙車のような感じですね。内在的制約が、一定限度で許容されることは別におかしなことではないとおもいます。これが性的や性別についてであったら、ということをちと考えます。例えば社会的には、性別による社会的な差があります。民法上は兎も角、戸籍法上は同性同士の婚姻は受け付けられないはずです。たぶん男とは何かを定義した法律は無くても(半陰陽の性の人はどうなるんだろうとおもうのですが)男女による性別により、二つに分けられた社会的秩序がこの国においては公序としてあって、これにもとづく半ば強制的な制約から逃れることはちと難しかったりします。ただ、それでもなお、女性とか男性とかそれぞれが社会的制約の中で求められてる役割を忠実に実行できるとはいえない場合があったりします。女性がダメな男性、男性がダメな女性が居たりします。えっと、人によっては性的役割とかは各個人が具体的に遭遇する相手との間で、個別に決まっていくことになります。男性が好きになった場合の男性の場合は社会の通念上の男性としての役割を必ずしも適用するわけにはいかない訳です。


こういうことで、実は、悩むわけです、普通。社会的に求められてる男は本来女性が好きにならなければいけないわけですが、同性にも惹かれるってことに、自分は多少おかしいんじゃないかとか、考え込んじまう訳です。また、世間の目と自分の本音との葛藤がはじまる訳です。旧約聖書レビ記の記述とかを知ってる敬虔なカソリックのゲイやレズの人なら多少は自分の信仰について考えるでしょう(旧約聖書旧約聖書に過ぎませんが信仰を持ってたとしても保守的なカソリック教会がちと同性愛者を受け入れてくれるかどうか私は知りません)。ちょっと自己決定が難しい問題であるわけです。異性愛者に比べて。


ここで、ある意味人道的に、異性愛者も同性愛者も人間だから一緒じゃないか、というのは実はかなり説得力あるんですけども、本人には響いてこないのです。世間通念上の一般人との差異があって、たぶんその差異を多少なりとも真剣に考えて、で、人によっては薄氷踏むおもいで決断して、その方向へ歩き始めたゲイやレズやバイに対して、その差異をすっとばした言説というのは、ものすごく乱暴なわけです。少なくともそう感じる人がここには一人います。つか、そう考えた時期もありますが、自分を納得させられなかったっていうのもあります。
で、やはり、人間が出来てない私なぞは、そういった大雑把な括りについて、反発を覚えちまうのです。

できれば細かなことだけど、差異を認めて欲しいかな、ってのは、少数派の願いであるとおもうのです。
難しいのですが。


余談ですが。
異性愛者がごく当たり前のように、いま、ノーマルという云い方をしてるときに私は多少の違和感を覚えますです。異性愛者がノーマルという概念を持ち出すとなると、そうなると同性愛者はアブノーマルなのかいってことになります。その、ノーマルといった本人が気がつくかどうかは別論として、上からの目線になっちまう可能性がありますです。同性愛と両性愛というのは単に相対的なものだとおもうのですが、その相対化されるための言葉の意味がノーマルといった言葉で全く変わってきちまいます。その傲慢さにどれだけの人が気がついてるのかな、と、おもいます。