見ることもしくは視線について(映画『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』を観て)

ここ数年ずっと追いかけている青春ブタ野郎シリーズの映画『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』を今月に入ってから観ています。おもしろかったです!で済ませても良いのですがなんだかもったいない気がするので、メモ代わりに書きます。

いつものように幾ばくかのネタバレをお許しください。主人公の梓川咲太は妹の花楓とともにいまは藤沢に住んでいます。いまはと書いたのは梓川家の兄妹は以前は横浜に居て、横浜では花楓ちゃんがSNSでイジメに遭遇しそれを苦にした母親は精神的な疾患を発症し梓川家は家族で住むことを諦め、結果的に隣接する藤沢での兄妹二人の生活になっていました(ここらへんは『バニーガール先輩』および『おるすばん妹』に詳しい)。『ランドセルガール』は復調の兆しを見せた母親と梓川家の兄妹の物語が主です。主ですと書いたのにはわけがあって主ではない副の部分である親子関係の話が一筋縄でなくひどく重いからです。もっとも物語そのものは淡々と進みます。

いつものようの話は横に素っ飛びます。題名に「見ない」という文字が入っていますが「見る」というのは意思表示の一環でもあって、たとえば本作の前半部で咲太の後輩である古賀さんは咲太の目を見て「かわいいっていうな!」と抗議する描写があるのですが・後半部ではベッドの中でヒロインである桜島先輩が咲太の目を見ながら「おはよう」とささやく描写があるのですが、目と目が合うことで意思疎通が強化されることもあるはずです。目そのものは言葉を伝えませんが、視線が合うことによって言葉以外のものが伝わることがあるわけで。

青春ブタ野郎シリーズのいくつかには「人は見たいようにしかものを見ない」という主題が伏流水のように流れていてそれが本作の『ランドセルガール』にも出てきます。そして話を物語に戻しながらもう幾ばくかのネタバレをお許しいただくと、物語の途中から咲太は誰からも認識されなくなった上でそして母親が咲太と視線をあわせないことやそれに気が付かなかったことに気が付きます。

「つまり、見えるものについては人の主観が入っるってことだよな?」

「そう。見たくもないものは見ようともしない。そんな芸当も、人間には出来る」

見て見ぬふりをするなんて言葉もあるくらいだ。眼中にない。気にも留めていなかった。意識していない。言い方はいろいろあって、納得できる部分は多々ある

青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』P99

見えるもの見えぬものに関して過去の経験から学び取った咲太が直面した問題をどうやって解決したかや物語がどうなったかや一筋縄ではいかぬ親子関係については本作のキモだと思うので詳細はぜひ劇場で作品をご覧いただくか原作にあたっていただくとして、誰も咲太に気づかず咲太抜きで家族のだんらんがはじまる描写ほか本作は「見る」「視線をあわす」といった目に関する行為について映像で巧く表現している気がしてならず、文章にはおそらくできぬことなので制作陣にブラボーを贈りたいほど唸らされています。個人的にはそこらへんが映像化した本作の見どころのひとつです。

映像ついでに書いておくと認識されなくなってから横浜の家の鍵を開けようとして巧くいかぬ描写が咲太の焦りを巧く表現できている気がしていて唸らされています。そして桜島先輩と江ノ電に乗り藤沢に戻る描写が終盤にあってそれがどってことないはずなのですがかなり印象に残っています。桜島先輩とともに帰る藤沢が日常と解釈し日常に戻れたのだなという安堵をその描写で確認したからかもしれません。

以下、くだらないことをいくつか。

ひとつめ。本作の終わりのほうで母親と花楓と咲太で泣きじゃくる描写があり「家族になった」という咲太の独白のセリフがありました。そんなセリフあったっけか?と思って原作にあたるとその記述があって(P276)、ああおれも見たいようにしか見ていないのだなと打ちのめされてます。ただ(家庭が機能不全状態の登場人物が多く家族ってなんだろうというところにつながりかねず)カットしてもよかったのでは?感はあったり。

ふたつめ。些細なことなのですが本作に出てくるランドセルガールがなんなのかは本作では明らかにはされていませんし原作でも明らかにはされていません。え?どうするの?このまま?と思っていたら『ランドセルガール』以外の原作のアニメの制作が決定したようで、ランドセルガールの正体はどこかで明らかにされるのでは?と期待したいところであったり。

みっつめ。青ブタの舞台は神奈川で、ご当地のものがたまにでてくるのですが今回はマーロウのプリンと崎○軒のシウマイです。青ブタのアニメを制作してる会社は伝統として料理を美味しそうに見せるのが巧く今回もそれは健在で、単に温めたシウマイであっても美味しそうで、観ながら「そのうち買おう」となってしまっています。

さて、原作を既に読んでいるので

 

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内容は知っていたのですが映像は「そこをそう表現したのか」とか「そこを拡大したのか」と違う視点から物語を俯瞰出来たせいか、飽きずに最後まで退屈せず観ていました。アニメをそれほど観ているわけでもないし詳しくもなくその上感想の書き方もよくはわからないのでこのへんで。

『デキる猫は今日も憂鬱』最終話まで視聴して

夏目漱石の『吾輩は猫である』は途中までは吾輩が耳で聞いたことを主にそれに批評等を加えることで成り立っています。途中まではと書いたのは後半はなぜか吾輩が眼で観察したことが主になるからです。それは何故なのか?という問いの答えは文学部卒ではないので知りはしませんし謎のままなのですが、一貫して猫と対比しながらちょっと変な人の生態や人間社会を描写しています…って漱石の話をしたいわけではなくて。

やはり猫と対比すると時として人の行動や人の社会はちょっと変なものに見えるのかもしれない、というのを今夏『デキる猫は今日も憂鬱』(原作・山田ヒツジ)というアニメを追っていて・録画した最終話までを先週にワクチンを打って安静にしているときに視聴して、再認識しています。もっとも、いくばくかのネタバレをお許しいただくと家事全般がそれほど得意ではない主人公である福澤さんと飼っている猫諭吉の物語で、それ以上でもそれ以下でもありません。

ただどってことないはずのエピソードが、ひどく印象的でした。

最終話(13缶目「デキる猫は明日も憂鬱」)では福澤さんは「あれ」とか「それ」で済んでしまいまう日常に気が付き・名詞がさっぱり出てこないことに気が付き・言語能力がいくらか衰えていることに気が付き、諭吉を巻き込んでカイゼンしようとする姿を描いています。詳細は本作をご覧いただきたいのですが頑張ってはみるものの、同僚に卵焼きのレシピを問われ教える約束をし実行する際に、マヨネーズの分量は「ぶちゅっ」醤油のそれは「ちょんちょん」でした。視聴しながらゲラなので息ができないほど苦しかったのですが、しかし人は細かいものを指示や指定しなくてもなんとかなってしまうので・日常生活では細かいことを語らずに済ましてしまうことが多いはずで、私も生姜焼きの好みの味つけの分量については詳細に語れないので笑ったぶんだけブーメランのように刺さっています。猫と人の差異は細部までしっかり伝えることが出来る言語を獲得した点にあるはずですが、それを活かしてるかというと確かに疑問でそして変で、それらを巧くフィクションに載せていて唸らされています。

12缶目では月曜日を目前に控えた日曜の夜の福澤家の様子を

月曜日が来るよおおお!誰が来ていいよって言ったの!?二日しか休んでないのに五日も働けっておかしいでしょ!もう満員電車乗るのやだよおおお!

『デキる猫は今日も憂鬱』12缶目「デキる猫は家を出てゆく…?」

という福澤さんの嘆きとともに丁寧に描いていました。たしかにやらなければならないめんどくさいタスクを抱えてる最中の月曜を前にすると月曜の到来は悲劇でその嘆きはひどくよく理解でき、ゆえにちょっと刺さっています。ただ冷静に考えると特定の曜日に感情の乱高下が起きるのっておそらく人間だけかもしれず変な習性のはずで、それをフィクションに巧く載せていた気が。猫と対比するとたしかに変かもしれずちょっと唸らされています。そして不思議なもので悲劇と喜劇は紙一重かもしれなくて、福澤さんのこの嘆きのシーンを息ができないくらい苦しみながら腹を抱えていました。またそれらの嘆きを諭吉が必死にあやしながらなんとかしようとしていて、そしてその方法が斬新で腑に落ちるものだったのですがそれは本作にあたっていただくとして。

吾輩は猫である』のほうでは「人間の世界の世界もそう長くは続くまい、猫の時節が来る」とも述べていて、猫の書かれた日露戦争の頃から118年経過していまでも人間の世界が続いているものの、やはり人間って変だよなあ…などと全話見終わってから思っちまっています。念のため書いておくと今回意図的に「猫からみたら人は変である」という部分を抜き書きしていますが基本的にはコメディで、

 

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毎週密かに楽しみにしていたせいもあって忙しかった今夏をおかげさまでなんとかやり過ごせています。

最後にくだらないことを一つだけ。

春先に都営大江戸線の駅に江戸前エルフというアニメのポスターが貼ってあって縁のある小伝馬町の神社の御神体にそのエルフが似ていたせいもあってちらっちらっと観ていてその予約を消しそこねて『デキる猫は今日も憂鬱』に偶然出会っています。放送時間帯は誰も視聴していなさそうな深夜だったのですが本作はコメディとしてかなり良かったので「なんだかもったいない」感があったり。

『デキる猫は今日も憂鬱』11話まで視聴して(もしくは秘密と秘密保持に関して)

今夏『デキる猫は今日も憂鬱』というアニメを追っていました。いくばくかのネタバレをお許しいただくと詳細は本作をご覧いただきたいのですが家事全般がそれほど得意ではない主人公である福澤さんと飼っている猫諭吉の物語で、それ以上でもそれ以下でもありません。ある日突然異世界に飛ぶわけでもなければ、同じ日が何度も続くということも起きません。でもただただ面白かったです…だと小学生の作文になってしまうので、もうちょっと書きます。

もう幾ばくかのネタバレをお許しください。諭吉を飼ってることを福澤さんは同僚などには知らせているものの、どんな猫かの詳細をそれほど言及していません。唯一諭吉を知ってるのが福澤さんの上司の織塚部長で、しかしそれは子猫の時代のことであって、福澤家のいまの諭吉の正体を知るわけではありません(2缶め「デキる猫は大きく育った」)。そして福澤さんは家族にすら諭吉の正体を隠しています(6缶め「デキる猫は写真映りがいい」)。ところが諭吉はアグレッシブで、諭吉の正体がバレるのを怖れる福澤さんを尻目に織塚部長の姪の誕生日に招かれたらそれに応えようとします(5缶め「デキる猫は誕生日会にも行く」)。

本作に伏流水のように流れてるテーマはおそらく「秘密」もしくは「秘密の保持」です。隠さなければならない秘密があるとき秘密を必死に隠すのは至極当たり前の行為で、福澤さんは何度も秘密がバレそうになるピンチを迎えます。話がいつものように横にそれて恐縮ですがきわめて個人的なことを書くと、見ているこちらは秘密の共有者でひやひやしつつも被害を蒙らない第三者でそれらのピンチを安心して眺めていることが出来るせいか、「秘密を抱えた人がその秘密を保持しようとする姿」が時として滑稽にみえることをこの物語ではじめて知りました。

更なるいくばくかのネタバレをお許しいただいたうえで秘密ついでにもう少し書くと、印象深かったのが秘密がそれとなく伝染する点です。福澤さんと諭吉と両方に面識のあるスーパーの店員さんも諭吉の正体をほぼ知らぬものの、秘密の共有者になった途端にピンチの状態に陥るとその秘密の保持に協力しようとします(8缶め「デキる猫は心配が多い」)。その描写が作為的でなくナチュラルで、ちょっと唸らされています。

そして物語後半では秘密を抱えそれを隠そうとするのは福澤さん以外にもあることについて触れられています(11缶め「デキる猫は健康に気を遣う」)。福澤さんとも諭吉とも面識のあるスーパーの店員さんは福澤さんに好意を持っていることを従姉妹に告白しようとし、引っ込めます。やはり詳細は本作をご覧いただきたいのですが秘密はふとした拍子にできてしまうしそれが他人に容易に云えないのも仕方ないことである、ということをフィクションに巧く載せている気がしました。

最後にくだらないことを。福澤家の食卓には美味しそうな料理が並びます。最新の11缶めでは日本酒にわさび入りのポテサラでした。あ、それ絶対美味そうなヤツだ、と思えたのでマヨネーズにわさびを入れて真似するつもりです。でもって、おそらく3か月で終わってしまうはずなので残話数というか残缶数は少ないはずなのですが、万障繰り合わせて録画して視聴する予定です。

映画『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』を視聴して

ここ数年ずっと追っている「青春ブタ野郎シリーズ」の映画『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』をこの週末に観覧してきました。登場人物が分裂するわけでもなく同じ日が何度も繰り返されるわけでもない地味な物語なのですが最後まで観ちまっています…という月並みな感想で終わらせると楽なのですが、めんどくさいけど書きます。

幾ばくかのネタバレをお許しください。本作はテレビアニメで放映した『バニーガール先輩』の後日談で、主人公である梓川咲太の妹で以前は不登校気味で引きこもりでもあった梓川花楓の受験がメインの物語です。

神奈川の入試はア・テストといって高校受験が独特だった影響もあって原作の表現を借りれば内申点が4割から5割を占め入試当日のテストが4割程度で、つまるところ内申点が期待できない引きこもり少女であった花楓ちゃんにとってちょっと厳しいシステムです。にもかかわらず、花楓ちゃんは「みんなと同じ」がいいと述べ兄の通う学校に行きたいと希望を述べます。その希望を叶えるべく咲太(数学)はもちろん、咲太の恋人である桜島先輩(現国)や桜島先輩の妹である豊浜のどか(英語)も得意分野で勉強をみるなど協力します。花楓ちゃんの奮闘や受験の合否を含めどうなったかは是非本作をごらんいたくが原作を読んでいただいて確認願いたいところであったり。

ところで、青ブタでは伏流水のように奥底に流れてるテーマがいくつかあって、そのうちのひとつが「みんな」です。本作でも志望校を決めるにあたり花楓ちゃんは「みんなと同じ」ということ意識しています。しかし言葉というのはその言葉の意味を問うても明確には答えられなかったりすることがあって、実は花楓ちゃんが意識していた「みんな」もそのひとつです。たとえば咲太もその問題にぶつかっていて

右に倣えの生き方は楽でいい。いいこと、悪いことの判断も全部自分でするのはカロリーを使うし、自分の意見を持つと、否定されたときに傷つくことになる。その点、『みんな』と一緒であれば、安心、安全でいられる。見たくないものを見ずにいられる。考えたくないことを考えずにいられる。

鴨志田一・「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」・P317)

と解を出し、そのうえで「だいたい、『みんな』とは誰だ」という問いに達して行動を起こしています。もう幾ばくかのネタバレをお許し願いたいのですが結果としてこの「みんな」とはなにか?問題が兄同様に花楓ちゃんを変容させてゆきます。やはり詳細は本作をご覧いただくか原作をお読みいただくとして、キモだと思っていた部分が端折られずに映像でも残っていたのでホッとしています。

以下、些細なことをいくつか。

どうしてそうなったのかは本作をご覧いただくか原作をお読みいただきたいのですが、作中、心を閉ざしかけてる花楓との対話の継続をなんとかして試みようとする咲太に担任が声をかけてしまうシーンがあります。予期せぬ邪魔が入ったせいか振り返ったときの咲太の憤怒の表情がなんとも形容しがたい兄妹間の絆の深さを感じさせ、文字では限界のある映像にしかできない説得力のある表現で、唸らされています。他にも、咲太のバイト先であるファミレスで受験を前に咲太がバイトを辞めてしまうのではないかと一瞬不安になった後輩である古賀さんの、咲太がバイトを継続すると判ったとたんの表情が、古賀さんと咲太との先輩後輩以上の関係性の深さを感じさせ、それはやはり文字では限界のある映像にしかできない表現で、唸らされています。さらに蛇足ですが、花楓ちゃんがファミレスでデミグラスソースのかかったオムライスを食べて咲太が花楓が戻る前のかえでちゃんを想起するシーンがあるのですがそのときの花楓ちゃんがいてもかえでちゃんが居ない悲しみがゼロではないわけではない咲太の表情が、やはりこれまた文字では限界がある映像でしかできないと思われる表現で、唸らされています。

それらの唸らされる描写がところどころにあったせいか、受験というかなり地味な題材であったにもかかわらず・原作を先行して読んでいて物語がどうなるかも知っていたにもかかわらず、くりかえしますが最後まで飽きずに観覧しています。ほんと制作陣に脱帽です。

ただ一点だけどうしても引っかかったのが広川卯月役の声優さんです。花楓ちゃんや咲太役の声優さんが喜怒哀楽に応じて声音や声量を変えたりしてメリハリをつけていたにもかかわらず、広川さん役の声優さんだけはなぜかそれらのメリハリが無く聴こえ、正直浮いているというか違和感がありました。ほんとはこういうことを書いちゃいけないのかもしれませんし、アニメに詳しくないし加えてアニメの感想の書き方がよくわからないので、このへんで。

『スキップとローファー』を最終話まで視聴して

夜に東京ローカルのMXはアニメを流してて、ここのところ『スキップとローファー』(原作・高松美咲)という作品を視聴していました。疲労がひどいので翌朝のことを考えてダイレクトには見ておらず録画してですが…ってそんなことはほんとにどうでもよくて。

11話と最終話である12話は主人公である岩倉さんが通う高校の文化祭がメインでした。いくばくかのネタバレをお許しいただきたいのですが、岩倉さんは参加しないものの岩倉さんのクラスは演劇に取り組み、その演劇には過去に子役の経験のあるクラスメイトの志摩くんが登板し、その子役仲間も志摩くんの出る演劇を見に来校します。その演劇がどうなったのかはキモだと思うので是非本作か原作でチェックしていただくとして、最終話は志摩くんの内面の変化に焦点を当てていて、本作は岩倉さんが主役だけどヒロイン(…ヒロイン?)は志摩くんだったのかもなあ、と改めて思わされています。

この点についてもう少し語りたいのでお付き合いください。

もう幾ばくかのネタバレをお許しいただきたいのですが、志摩くんには血のつながらぬ弟がいてその弟にいくらか遠慮がある描写やまた若干複雑な家庭であることが8話等過去の放送分から伺えていて、志摩くん自身も一時期「母に喜んでもらう」というのが自らの行動の動機になっていて、つまるところ周囲の反応に応じて行動をするところがあり、言い換えれば主体性がさしてない点がさりげなく今までの描写のなかにありました。そしてクラスの演劇でも他人に期待されたので役を引き受けてしまったところがあります。それらの他人の反応が行動の動機になってしまってること自体は処世のひとつとして理解できなくもないのです。その行動を第三者と比較しなければなにも気が付かずに居られます。

が。

吉祥寺の駅で偶然志摩くんの目の前にあらわれたのが、やりたいことをやりたいといい(たとえば8話では出来ると思ったことを自ら志願し)それで失敗してもひねくれない(「私立ち直るのもはやいから」と宣言して行動に移す)裏表のない岩倉さんで、結果的に志摩くんを変えてしまい、最終話後半では志摩くんは志摩くんの意思である行動に出ます。その行動もキモだと思うので本作か原作にあたっていただきたいのですが、それはともかく、そして1話では学校をサボろうとした志摩くんが「学校が楽しい」とまで子役仲間に告げるのがなんかこう、すごく良いな、と思えました。

さて、私は「人には可塑性がある」と思っていて、(志摩くん以外にもたとえば村重さんも岩倉さんと仲良くなり空気を読むのを止めたりとか変化していて)本作にそれを見出してしまったので唸らされてるところがあります。主題は丁寧に描かれてますが、ものすごく地味です。ので、人によって本作は評価が分かれると思います。

そして本作はアニメとはいえファンタジーにはしていないので、たとえば村重さんに対して劣等感があったり志摩くんに近づきたかった江頭さんの描写を含め、人としてどろどろした部分もきっちり描かれています。どうでも良いことを書くと、そのどろどろ路線もカットしていないので、岩倉さんが立ち直り上手だとしても、いつどこで変なほうに転ぶかわからない怖さがあって、どこかで失敗を予期して曲芸を視ているような感覚がなかったわけではなく無駄にハラハラしちまったことを告白します…って書かなくても良いことを書いている気が。

アニメの感想の書き方とかよく知らないのでこのへんで。

スキップとローファー10話までを視聴して

夜に東京ローカルのMXはアニメを流してて、ここのところ『スキップとローファー』(原作・高松美咲)という作品を視聴しています。1話では奥能登から出て来た岩倉さんが入学式の日に(おそらく吉祥寺)駅で迷っているところをサボろうとした志摩くんが助けるところから物語がはじまり、岩倉さんは首席で全校生徒の前で新入生代表として答辞を役を引き受けたにもかかわらずペーパーを忘れてしまったことに壇上にあがったあとに気が付きます。そのとき岩倉さんがどうしたか?そのあとどうなったか?は是非アニメか原作にあたっていただきたいのですが、つい最後まで見入ってしまっています。ただ(おっさんの恥じらう姿など誰も見たいと思わぬはずですが)恥ずかしながら放映終了の夜11時半まで起きてるのがしんどくて、ここのところは録画したものを視ています。

話数を重ねるごとに理解できてきたのですが、岩倉さんは裏表があまりありません。8話では志摩くんと上野動物園に行きそこでパンダのキーホルダー2個入りを買い、「2個入りのお得なやつだから」という理由でひとつは志摩くんに渡します。岩倉さんの述べた理由に噓偽りはなく、しかしそれらを第三者から眺めると「どういう意味を持つか」とか空気を読んでしまう余地は志摩くんにはあって、しかし志摩くんがどうしたのかは8話のキモだと思うので是非原作かアニメをご覧いただきたいのですが、8話ではその裏表のない岩倉さんのあるひとことをきっかけに志摩くんは躊躇していたことについて小さな心変わりをします。岩倉さんの影響による志摩くんのその小さな変化は、人には可塑性があると思ってるほうからすると、「なんか良いな」と思わされています。

もう幾ばくかのネタバレをお許しいただきたいのですが、10話ではクラス全体が文化祭の演劇の準備に動き出す中で、岩倉さんは自らに起因することでわりと凹むことが起こります。それを傍から見ていた志摩くんは岩倉さんに付き添うのですが、演じる作品を語りつつ、歌を歌わせ、引っ張りあげます。それがとても微笑ましく感じると同時に、現実からちょっと目をそらし→耳を使わせ身体を動かさせ他のことに集中させ→立ち直らせるというプロセスが理にかなってて見事で、そして岩倉さんは決して歌は巧くないのですが「良いものを視た」感があって唸らされています。でもって、1話では学校をサボろうとする程度にどこか斜に構えた感じのあった志摩くんが10話で好青年に変身したのを眺めてて「ああそうか、主人公は岩倉さんだけどヒロインは志摩くんなのか」といまさらながらに気が付きました。

最新話をまだ追えておらず、そして空気を読むことを筆頭に語りたいことがないわけではないのですが、それは横に置いておくとして、あともうちょっとで終わるのがちょっと惜しかったり。アニメの感想の書き方がよくわからないのでこのへんで。

『スキップとローファー』3話まで視聴して

たぶん何度か書いてると思うのですが「附子」という狂言があって、主から毒ゆえに近づくなと云われつつ覗き込む→気になって舐め→なぜなめたかということの理由を無理矢理考え出さねばならなくなる→茶碗と掛け軸を割って「(大事なものを壊したので)死んで詫びようと思った!でも死ねなかった」ということにしようとし、そこに主が帰宅してさあどうなる…というのが話の筋でした。どうなったかは狂言をご覧いただくとして、附子に引き込まれた後遺症として「え、どうなるの?」という話をみると引きこまれることがないわけではありません。

夜に東京ローカルのMXはアニメを流してて、最近『スキップとローファー』(原作・高松美咲)という作品の偶然1話を視聴しています。1話では奥能登から出て来た岩倉さんが入学式の日に首都圏の駅で迷っているところをサボろうとしたの志摩くんが助けるところから物語がはじまりました。いくばくかのネタバレをお許しいただきたいのですが、岩倉さんは首席で全校生徒の前で新入生代表として答辞を役を引き受けたにもかかわらず、ペーパーを忘れてしまったことに壇上にあがったあとに気が付きます。そのとき岩倉さんがどうしたか?そのあとどうなったか?は是非アニメか原作にあたっていただきたいのですが、つい最後まで見入ってしまっています。

もう幾ばくかのネタバレをお許しいただきたいのですが、3話ではクラスメイトと渋谷へ映画を見に行くものの、人見知りでチャラいのが苦手で内向的な久留米さんと端正な顔立ちの美少女ではっきりした性格の村重さんとの間に岩倉さんは座り微妙な空気に包まれてしまい、なんとかしようとします。岩倉さんがどうしたかや久留米さんと村重さんがどうなったかは是非アニメか原作にあたっていただきたいのですが、やはり最後まで見入ってしまっています。

奇をてらった物語ではいまのところありませんし、もちろん異世界に飛ぶわけでもありません。ただ、岩倉さんは奥能登出身で同世代との触れ合いが無かったゆえに(たとえばほっぽっとけばいいのに村重さんと久留米さんの微妙な空気に責任を感じてしまう程度に)めんどくさそうで、志摩くんも岩倉さんに見せる部分では素直ですが入学式をサボろうとする程度に根は斜に構えてめんどくさそうで、久留米さんはおのれに自信が無いゆえにめんどくさそうで、村重さんは他人をあまり信用して無いゆえにめんどくさそうで、というようにめんどくさそうな人の集まりで巧くゆく予測があまりつかず、ゆえに物語として視ていて飽きません。正確に書くとフィクションとわかってるのに附子的に「え?どうなるの」的にハラハラしてしまうところがあります。加えて、それぞれ架空の人物ではあるものの、久留米さん要素が何割かある人とか志摩くん要素が何割かある人というのは高校生に限らず大人でもいるはずで、ゆえに妙にいくばくかのリアリティがあるのです。たぶん最終話まで視聴してしまうかもなんすが、この作品を知り得たことがなんだか零れ幸いであったり。

アニメとかマンガに詳しくないしレビューとか感想の書き方などにも詳しくないのでこのへんで。