『デキる猫は今日も憂鬱』最終話まで視聴して

夏目漱石の『吾輩は猫である』は途中までは吾輩が耳で聞いたことを主にそれに批評等を加えることで成り立っています。途中まではと書いたのは後半はなぜか吾輩が眼で観察したことが主になるからです。それは何故なのか?という問いの答えは文学部卒ではないので知りはしませんし謎のままなのですが、一貫して猫と対比しながらちょっと変な人の生態や人間社会を描写しています…って漱石の話をしたいわけではなくて。

やはり猫と対比すると時として人の行動や人の社会はちょっと変なものに見えるのかもしれない、というのを今夏『デキる猫は今日も憂鬱』(原作・山田ヒツジ)というアニメを追っていて・録画した最終話までを先週にワクチンを打って安静にしているときに視聴して、再認識しています。もっとも、いくばくかのネタバレをお許しいただくと家事全般がそれほど得意ではない主人公である福澤さんと飼っている猫諭吉の物語で、それ以上でもそれ以下でもありません。

ただどってことないはずのエピソードが、ひどく印象的でした。

最終話(13缶目「デキる猫は明日も憂鬱」)では福澤さんは「あれ」とか「それ」で済んでしまいまう日常に気が付き・名詞がさっぱり出てこないことに気が付き・言語能力がいくらか衰えていることに気が付き、諭吉を巻き込んでカイゼンしようとする姿を描いています。詳細は本作をご覧いただきたいのですが頑張ってはみるものの、同僚に卵焼きのレシピを問われ教える約束をし実行する際に、マヨネーズの分量は「ぶちゅっ」醤油のそれは「ちょんちょん」でした。視聴しながらゲラなので息ができないほど苦しかったのですが、しかし人は細かいものを指示や指定しなくてもなんとかなってしまうので・日常生活では細かいことを語らずに済ましてしまうことが多いはずで、私も生姜焼きの好みの味つけの分量については詳細に語れないので笑ったぶんだけブーメランのように刺さっています。猫と人の差異は細部までしっかり伝えることが出来る言語を獲得した点にあるはずですが、それを活かしてるかというと確かに疑問でそして変で、それらを巧くフィクションに載せていて唸らされています。

12缶目では月曜日を目前に控えた日曜の夜の福澤家の様子を

月曜日が来るよおおお!誰が来ていいよって言ったの!?二日しか休んでないのに五日も働けっておかしいでしょ!もう満員電車乗るのやだよおおお!

『デキる猫は今日も憂鬱』12缶目「デキる猫は家を出てゆく…?」

という福澤さんの嘆きとともに丁寧に描いていました。たしかにやらなければならないめんどくさいタスクを抱えてる最中の月曜を前にすると月曜の到来は悲劇でその嘆きはひどくよく理解でき、ゆえにちょっと刺さっています。ただ冷静に考えると特定の曜日に感情の乱高下が起きるのっておそらく人間だけかもしれず変な習性のはずで、それをフィクションに巧く載せていた気が。猫と対比するとたしかに変かもしれずちょっと唸らされています。そして不思議なもので悲劇と喜劇は紙一重かもしれなくて、福澤さんのこの嘆きのシーンを息ができないくらい苦しみながら腹を抱えていました。またそれらの嘆きを諭吉が必死にあやしながらなんとかしようとしていて、そしてその方法が斬新で腑に落ちるものだったのですがそれは本作にあたっていただくとして。

吾輩は猫である』のほうでは「人間の世界の世界もそう長くは続くまい、猫の時節が来る」とも述べていて、猫の書かれた日露戦争の頃から118年経過していまでも人間の世界が続いているものの、やはり人間って変だよなあ…などと全話見終わってから思っちまっています。念のため書いておくと今回意図的に「猫からみたら人は変である」という部分を抜き書きしていますが基本的にはコメディで、

 

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毎週密かに楽しみにしていたせいもあって忙しかった今夏をおかげさまでなんとかやり過ごせています。

最後にくだらないことを一つだけ。

春先に都営大江戸線の駅に江戸前エルフというアニメのポスターが貼ってあって縁のある小伝馬町の神社の御神体にそのエルフが似ていたせいもあってちらっちらっと観ていてその予約を消しそこねて『デキる猫は今日も憂鬱』に偶然出会っています。放送時間帯は誰も視聴していなさそうな深夜だったのですが本作はコメディとしてかなり良かったので「なんだかもったいない」感があったり。