曇天の江ノ島へ

江ノ島へ行ってきました。

小雨になる予報が出てたせいもあって江ノ島へ向かう弁天橋も人は少なめ。どうみても雲行きが怪しく、しかしこのときここまで来たからには「行かずに後悔するより行ってから後悔しようか」という選択をしています。

去秋の手術前に江島神社にお参りしていて「なんとかなった報告をしなくちゃ」という目的もあったのですが。

さて中津宮の先にサミュエル・コッキング苑という、(通称シーキャンドルともいう)灯台と植物園があります。いまは植物園部分は日中は無料開放されていて、どうせ無料ならばと寄っています。とはいえ冬だし椿以外は無いかなと思っていたら

もういくらか先だと思っていたチューリップが群生しているところがあって(ただしそれほど広くはない)、海からの風があたるとはいえ咲いてるとは思ってなかったのでちょっとした零れ幸いに驚いて、つい足をとめています。

黄色いのはイエローフライトという品種らしく、曇天の下であったせいか、妙に鮮やかに感じられました。この状況下でも咲くということは耐寒性があるのかも。

天気予報の精度を舐めてはいけなかったようで奥津宮を経て稚児ヶ淵まで来たところで雨に降られちまいました。御礼参りという初志貫徹はできたので後悔はしていません。「あ、傘持ってきてない」という告白があって片瀬まで野郎2人でひとつの傘で戻っていて、なのであえて反省点を書くとすれば「小雨の予報でも傘は持とう」なのですが、まるで大人が書く内容ではないような気がするのでこのへんで。

抗原検査キットを探して

たぶんどこにでも転がってるかもしれない話を書きます。

東京では先月の感染者数が増えはじめたあたりから「抗原検査のキットと解熱鎮痛剤を自ら用意してください」というような呼びかけが都庁などからなされていました。解熱鎮痛剤は第七波のときに備蓄しておいたのが手つかずで流用できるのですが、問題は抗原検査キットです。一応、(人口12万程度の)いま住んでいる街の市役所が有症状者向けにキットを配布してるのですが「一日25個限定無くなり次第終了」で、感染が拡大してる状況下ではいざというときにあんまりアテはできません。しかしどこでも売っているわけではなくて、(明け方の街や桜木町までは行っていませんが)いつでもさがしているよどっかに君の姿を状態で半月程度勤務先のある街や住んでいる街のドラッグストアを寄るたびに探しても見つけることができませんでした。

過去形で書いたのにはわけがあって。

昼に銀行に用があって、その道すがらの調剤薬局の前に「医療用抗原検査キットあります但し無くなり次第終了」の手書きの張り紙があり、ひとつだけ買えてます。

ちなみに1480円で、薬剤師さんに使い方を説明してもらっています。陽性であった時の対応を記したペーパーも貰ってて、無症状でも5日目に抗原検査キットによる検査という表記があってもうひとつくらいあったほうが良いようにもとれるので探すつもりです。もうちょっと入手しやすいとありがたいのですが。

さて

www.keisan.nta.go.jp

呼びかけに応じて抗原検査キットを買った場合医療費控除になるのだろうか?と思って国税庁のHPを眺めてたのですが、PCR検査費用を自己の判断で行った場合は陽性でない限り控除できない扱いなので、抗原検査キットも陽性でない限り難しいはず。

抗原検査キットを使わずに終わればいいのですが、こればかりはわかりません。もちろんマスクや手洗い励行はもちろんのこと感染せぬよう気をつけるつもりで、なんとかして第八波を切り抜けたいところ。

『暁の宇品』を読んで

『暁の宇品』(堀川惠子・講談社・2021)という本を読みました。宇品というのは広島市南部の港がある地名で、暁というのはそこに駐在した陸軍の船舶部門の通称です。本書は満州事変当時トップであった田尻司令官および終戦時トップであった佐伯司令官について多くの頁を割きつつ、簡単に書けば宇品から見た大正期から終戦時までの陸軍の海運部門に関する歴史です。どんな人がここを読んでいるかわからないので・広島へ行ったことがない人も多いと思うので、念のため書いておきます。広島にはかつて陸軍の(『黒い雨』の主人公が関係する)被服支廠や糧秣廠があり、加えて宇品には陸軍の自前の桟橋があり、そこから船に兵士や物資を載せていました。佐世保や横須賀には海軍がいますが海軍は基本的に陸軍の兵士や物資を運びません。ので、陸軍は必要な時に民間から船舶と船員を徴傭し船舶輸送をし、宇品を本拠地にそれらの実務を担っていたのが暁部隊です。

語りたいことがいくつかあるのですが、黒い雨のことに絞って書きます。

本書でかなりのページが割かれてる田尻司令官は上陸作戦を想定する区域の現地を確認した上で実情に合わせた小型舟艇の開発を陸軍省と掛け合うほど(P76)の実務重視の姿勢を示していました。満州事変ではご存じのように日本は大陸へ出兵することとなり、宇品の暁部隊は陸軍の輸送の実務を担い、やはり民間から(漁船も含めて)多くの船を徴傭します。その結果、陸軍及び海軍で当時の日本の船舶の保有量の4割弱が軍用船となり(P151)、困ったことに満州事変はご存じの通りすぐには終わらず戦線が拡大してしまい日本では滞貨は日常となり、炭鉱からの石炭も船がないと運べず→石炭がないと発電所も動かせず→発電所が動かないとアルミが精錬できず、という状態に陥り、暁部隊には船の解傭を求める声が殺到することとなります(P149)。実務重視の田尻司令官がどうしたか、および、その後どうなったかはキモだと思うのでぜひ本書をお読みいただきたいのですが。いまでもこの国は物資の輸送のある程度を海運に頼っています。そうならないように願うばかりですが、仮に民間から船舶を徴傭して輸送しなければならない事態となれば田尻司令官が直面したように同じ事態になるかもなあ、と。

話がいつものように素っ飛びます。

井伏鱒二さんの『黒い雨』の主人公の勤務先は陸軍の被服支廠に関係しています。ピカドンのあとに石炭が足らなくなり糧秣支廠の関係者と共に暁部隊を尋ねて宇部の炭鉱から石炭を広島へ運んでもらうように陳情するシーンがあります。それを読んでいたのでピカドンが落ちるまではそこそこ石炭が運ばれていたのかな?と想像していたのですが、恥を忍んで書くと、かなり早い段階で国内の物流が滞りはじめていたことを本書ではじめて知りました。そのような状況下の中で今度は米国との戦争に突入します。暁部隊がどうなったかはやはり詳細は本書をお読みいただくとして。

話を元に戻します。

暁部隊のある宇品は広島駅や広島城から若干離れていて、ピカドンの影響は屋根が吹っ飛んだりガラスが割れた程度(P326)であったようです。暁部隊には小型舟艇を筆頭に船舶が大量にあり広島には複数の川が流れていることを奇貨として、消火活動や救難救護、上水道の漏水対策、山陽線等の復旧、衣料品や食料の放出や詳細な記録作成などを行っています。本書は船も有り人も居た近くの江田島の海軍がほぼ動かなかったのと対比しつつ、当時の佐伯司令官がなぜそのような的確な行動を起こせたのか?という謎に迫り、関東大震災当時に佐伯司令官が戒厳司令部に居たことを突き止めます(P342)。ほぼ大正12年の陸軍と似た行動をしておりそのときの経験が役に立ったわけで。正直本書を読むまで関東大震災時の陸軍の暗の部分は知っててもそれ以外の功を知らなかったので、唸らされています。

さて、ifの話ほどバカバカしいことはないと思います。が、どうしても考えてしまうのは、ピカドンのときに宇品の暁部隊が動いてなかったら、です。建前としては陸軍も海軍も当時本土決戦を想定していて江田島の海軍が動かなかったのはおそらくそのためで、暁部隊も本土決戦ために朝鮮や満州から西日本へ物資を運んでいました。本書のあとがきにも触れられてるのですけど、暁部隊ピカドンのあとの行動は「軍隊とは何のために存在してるのか」という根源的な問いを秘めてると思われます。

話があちこちに素っ飛んで恐縮なのですが、上記の『黒い雨』ではどちらかというと陳情の件について暁部隊が事態の解決について非協力的な印象をもっていました。が、本書を読む限りそれどころではなかったわけで。複数の視点から眺めないと危険なこともあるなあ、と痛感させられています。

本をたくさん読んでるわけでは無いので大きな口は叩けませんがそれでも書くと本書はあてられることのなかった分野に光をあてた、かなりの熱量を持った本です。まだ語りたいことがあるのですが、駄文しか書けそうにないのでこのへんで。

円山公園の長楽館へ

知識として知っているけど行ったことのない場所というのがあります。白川という両岸に柳が植えてある小さな川が流れててそこに掛かってるのが

切石を石柱の橋脚で支えただけの単純な一本橋とも行者橋ともいわれる小さな橋です。ドラマかなにかでみて存在は知っていたものの「ああここにあったのか」と思いました…って橋を観に来たわけではなくて。

その行者橋より南にある円山公園の中に長楽館という建物があって

紙巻きたばこで財を成した吉井さんという人の別邸であった(白く見えるのは花崗岩を貼ってある)レンガ造3階建の明治末期の外見はルネサンス風の洋館です。いまはレストランや喫茶室、結婚式場などとして使われてます。

外見はルネサンス風と書きましたが正面玄関の前には石燈篭が鎮座していて

横には苔むした石造りの構造物があって覗いてみると

手水鉢のようですがその用はいまは無していなさそうな気配です。こんなデカイの、なんのためなのか。正直意図は正解はわかりません。

でも建物内3階には茶室や書院造の和室があるので無関係ではないはず。なお3階以外は非和風で、ロココ調、新古典主義、中国風などと部屋によって内装が異なります。

一昨年京都市美術館の展覧会で長楽館の備品が展示されていて存在は詳細を含めて知っていて「いちど行ってみたい」と思っていて、週末に京都へ行ったのを奇貨としてその念願を叶えてきました。とはいうものの、喫茶室でお茶をしただけです。

通されのはかつてビリヤード室であったところで、そこで私はモンブランを食べてます。どちらかというと甘すぎない大人向けの味付けでしたが添えてあるバニラのソースにラム酒が入ってて、それが皿を舐める誘惑に耐えるのが大変なくらいクセのあるもので、もう一度来ても良いかなと思えるくらいでした。ただし安くはありません。飲み物を含め2人分で樋口一葉が居なくなります。でも味も雰囲気も含めてなかなか得難い経験をした感がありました。

ビリヤード室にはステンドグラスもあって、しかし描かれてる景色は日本のどこかっぽい気が。洋室なのですが、細かいところに和があります。

天井はおそらく漆喰で、いちいち職人さんが西洋っぽく紋様を書いて仕上げたかと思うと唸らされます。念のため確認するとこの意匠は新築当時のまま。

床のタイルも紋様らしきものがあしらわれています。東京に戻って書いてて気が付いたのですが、花のようなものはたばこの花のデフォルメかなあ。

さて、最後にくだらないことを。

関東は冬の間は北西からの風が吹いて寒いのですが、盆地である京都はそれほど風は吹きません。が、足許からの寒さが確実にありました。童謡では猫はこたつで丸くなりますが円山公園では枯葉の上で丸くなっていました。ただしバラバラ。まとまったほうが暖かそうな気がするのですが、なんでなんすかね。

『青春ブタ野郎はマイスチューデントの夢を見ない』を読んで

青春ブタ野郎はマイスチューデントの夢を見ない』(鴨志田一電撃文庫・2022)を読みました。おもしろかったです…で済ますのがもったいないので、本をたくさん読んでるわけでもなければレビューを作成するほどの読解力もありませんが、書きます。

本作のヒロインはシリーズ通しての主人公である梓川咲太のバイト先の塾の教え子である高校一年の姫路紗良です。姫路さんがどういう人かは読むこちらには最初からしっかりとは明示されません。ただ咲太の後輩である古賀さんの

「姫路さんって、すごっいモテるから。先輩も、せいぜい気をつけてね」

’                         (P108)

という言葉のように警戒を促すような・古賀さんからすればおもしろくなさそうな、おそらく一筋縄ではいかぬことが暗示されます。姫路さんに何が起きたか・どのように事態が解決したか、については詳細は本作をお読みいただきたいのですが。

いつものように幾ばくかのネタバレをお許しください。本作の底に流れるのは「好き」もしくは「好きとはなにか」についてです。この「好き」もしくは「好きとはなにか」という主題は本作のあちこちで出てきます。たとえば咲太の友達候補の同級生の美東美織は「好きってなんだろうとときどき思う」と作中で述べるのですが、すかさず咲太は

「美東、カツカレーは好きか」

「好きだよ」

そう言って、美織は再びカツとカレーを口いっぱいにほうばった

「じゃあ、それが好きって気持ちだよ」

                     (P179)

と解を出します。作中にでてくるミニスカサンタこと霧島透子も咲太に奢らせる程度に金沢八景の街中のお店のモンブランに執着しています(P68)。誰もがその解に同意するとは限らぬものの、この咲太説≒作中の言葉を借りればある意味「野性的」な「好き」はおそらく間違っていません。

間違っていませんがカツカレーやモンブランのように自ら執着する以外の側面の「好き」についてもフィクションに載せて描かれています。

作中親友の双葉理央は教え子から執着を含む好意を持たれて予想外の事態に困惑する描写があって「好き」はそのように自ら向けるものではなく他方から寄せられることもありえることが例示されます。ところが姫路さんは双葉理央とは異なり他方から執着を含む好意を寄せらても困惑せず作中の言葉を借りればモテる状態が幸せと述べます。どっちが正常でどっちが異常かとかではありません。が、執着が他方に向かずすべておのれに帰着し「誰かに好かれる自分自身が好き」ということもありえるわけで。誰もが知る言葉でありつつ、かつ、誰もが同じとは限らない「好き」について、本作は深堀りしています。ここでもういくばくかのネタバレをお許しいただきたいのですが、咲太が押しつけがましくならない程度に自説を述べたあとそれを聞いた姫路さんは

「…だったら教えてください」

短い沈黙の後に、意を決したように紗良は口を開いた。

朔太を見上げたその瞳は挑戦的で、挑発的だった。

「どうしたら咲太せんせみたいに人を好きになれますか?」

                      (P173)

と咲太に投げかけます。一見素っ頓狂な質問ですがその素っ頓狂という感想は他人に好意を寄せるのが当たり前と考えてるからこそでてくる発想で、「ちやほやされる自分が好き」ならばこういう疑問が出てきても不思議はないです。咲太と姫路さんの会話は(はたから見ると姫路さん側の肝心なところが不思議と抜けているもののそれが特性とわかる程度に)わりと緻密に構成されてるので「こういう人が居てもおかしくないよな」的な説得力がありました。

姫路さんの問いに咲太はどう考えたかや、一緒にクリスマスを過ごすために物語後半では咲太と桜島先輩が動くのですが、そこらへんはいちばんのキモだと思うので詳細はやはり本作をお読みいただくとして。

以下、頭の悪い擬態語をつかって愚にもつかない雑感を書きます。本作では咲太と姫路さんとの会話は一問一答の検事調書形式というか咲太の問いに姫路さんが答え、そこから咲太も読者も姫路さんの思考を読み解くタイプのものが多いです。また最終章で桜島先輩は一問一答で姫路さんの内心にじわじわと迫ります。本作は会話がわりと鍵で、かつ、ぐいぐいきて、読んでいる最中は度数の高いアルコールを舐めているようなヒリヒリ感がありました。青ブタの続きはもちろん読みたいですが鴨志田一原作のミステリをいつか読んでみたいと思わされています。

さて、前前作「迷えるシンガー」でミニスカサンタが出てきてて、本作でも出てくるのですがモンブラン好きとかいくつか明らかになった点があったものの謎が多いままです。また前作「ナイチンゲール」で出て来た伏線もすべては回収されていません。加えて、不穏な動きが巻末にちらっと出てきます。次回作が気になるのですが、チュールのにおいを嗅がされながらの「マテ!」状態はきついので、はやめの新刊を期待したいです(実は前作ナイチンゲールと本作の間に2年ブランクがあった)。

2つほどくだらないことを。

ひとつめ。青ブタはちょくちょく美味しそうなものが出てきます。本作では賞味期限のある注文を受けてからマロンクリームを絞るモンブランが出てきます。モンブラン自体は知っていますが恥ずかしながら絞りたてマロンクリーム味の想像が想像できず、どんなものだろう?と数秒、フリーズしていました。いっぺん食べてみたいなあ、と思わされています。ちょっとハードルが高そうですが。

ふたつめ。青ブタは「人は見たいようにしかものを見ない」というのがちょくちょく出てきます。本作ではよりによって過去にその忠告をした双葉理央が教え子の好意に気付かず「周囲を見たいようにしか見てない」ことが発覚します。

作品の舞台は八景のほかに藤沢と鎌倉で、藤沢と鎌倉を結ぶ江ノ電もでてきます。作中でトンネルで車内が暗くなる描写があり、でもって個人的なことを書くと江ノ電にトンネルなんてあったっけ?とひっかかり、ネットに転がってる動画を見たら長谷のあたりに実在するようで。江ノ電には全区間乗ってるはずなのですが、やはり「人は見たいようにしかものを見ない」のだなあ、と。本作も見たいようにしか見てないかもしれないので、このへんで。

「おみくじを拾う」

坂の上の雲の中に療養中の正岡子規が松山のお寺でおみくじを拾うシーンがあります。拾うと書かれてる以上、どこかに結んであったものが解けてしまったのかもしれませんがそのおみくじは凶で、病は長引くけどいのちはさわりなし、と書かれていたことになっています。子規がどうなったか知ってるこちらは唸ってしまうのですが。

話はいつものように横に素っ飛びます。

東京ローカルな話をして恐縮なのですが西武線東伏見という駅があり、そこからそれほど遠くないところに伏見稲荷分祀した東伏見稲荷が鎮座しています。毎年なるべく正月に詣でていて、一昨年は控えたのですが去年から再開して今年も2日に古い神札を納めに行きました。新型コロナ前に比べて参拝者は少なめです。が、御守りやおみくじ等を求めるところは時節柄以前より増えている印象です。おみくじを境内に結びつけようとする人>おみくじを結びつけるスペース、となれば

おみくじが境内に溢れます。去年もそうだったのですが、結んだおみくじが解けてしまったのもありました。いまは新型コロナですが子規が療養のため松山に居た前後には赤痢コレラが連続して流行していて、もしかしてこんな感じだったのだろうか、とか想像しちまっています。この光景を目撃するまで「おみくじを拾う」というのがぴんとこなかったのですが、ありえるかもと思うようになっています…って、私の想像力の限界はどうでもよくて。もちろん拾ったりなどはしていません。

来年の今ごろはおみくじが転がってない状態であってほしいところですが、どうだろ。

ここでおみくじを引くのがお約束かもしれませんが、いちど凶を引き「いまより悪くなることがないってことだから良いんじゃね」と彼氏に云われて腑に落ちて以降、凶以外を引くのがイヤなので長いことおみくじを引いていません。今日も引いていません。せっかくおみくじのことについて書いてきたのに、それじゃダメじゃん

棒の話(もしくは2022年を振り返って)

「去年今年貫く棒の如きもの」ってのが虚子の俳句にあります。棒というのはたいてい右も左も同じ材質でできているはずです。なので同一で変わらない、という解釈をしています。でもほんとに今年と去年は棒のようなものなのか、誰かが証明したわけでもないはずで、私も確認したわけではないのでほんとのところはわかりません。個人的実感としては振り返ると去年と今年を比較すれば違いがけっこうありました。棒は違うんじゃないの?感があります。

今年の1月の第六波のあたりから(第七波のときもそうでしたし実はいまもそうなんすけど)、たとえば抱えてる仕事の関係で他社の人とアポイントをとってもその人が「濃厚接触者になった」とか「感染した」のでキャンセルとか、「それまで当たり前にできていたことが当たり前じゃなくなった」感が強くなりました。嘆いたところでなんの解決にもならないのでその場その場で臨機応変に対応してやり過ごすものの、「この状況がいつまで続くんだろう」と「なんとかならんのか」といううんざりした気持ちは去年と比べて濃くなっています。もちろんこんな話あちこちに転がってるかもしれませんし、ここで書いたところでなんの解決にもなりません。が、私はそれらを無かったことにもできないくらいに決して強くない凡人で前向きなことばかり考えているわけではなく、匿名を奇貨として記録しています。

また40代でもなる人はなるし時間がとれるなら今年中にどうですか…とドクタから忠告され、秋に白内障の日帰りの手術を受けました。新たにレンズを眼球内に挿入したことで0.1もなかった右目の視力がある程度回復しています。ただ術後がなかなか安定しなかったりと一筋縄ではいかなかったのですが、去年より今年が良くなったほうの違いのひとつです。

これから書かなくてもいいことを書きます。

「当たり前にできていたことが当たり前じゃなくなった」感が強くなったとか眼科の手術後一筋縄でいかなかったりとか今年はマイナスの面があったのですが、比例してフィクションの海にかなり溺れるようにもなっています。

バカにされそうですがあえて書くと、第六波の頃のコスプレが題材の『その着せ替え人形は恋をする』というアニメを毎週欠かさずに視聴していました。ヒロインである喜多川さんはコスプレが「愛情表現で好きという意思表示」であるのに対し喜多川さんが憧れるジュジュ様は「なりたかったものになる自己実現」であることを明確にし、着るという行為について改めて考えさせられています。原作は所作がなければ異性にしか見えない異性装も出てくるので地続きで「男を男と認識するのはなにか」「女を女と認識するのはなにか」ということも気になってしまい

gustav5.hatenablog.com

ほとんど興味が無かった服飾についての美術展も見学するようになってしまっています(…しまっています?)。

gustav5.hatenablog.com

知ってる歌舞伎役者が出ていたというのもありますが

gustav5.hatenablog.com

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』もほぼ毎週視聴していました。

また術後に長時間本が読めないにもかかわらずずっと追ってる青ブタの新刊が出たのでバカなことをしてるなという自覚はありつつもガマンしきれずに寝る前に毎日1章だけにして読んでいました。

フィクションなんてなくてもなんとかやってけそうなのですが、よくできたフィクションはそのとき現実をどこかへ追いやる機能があるはずで、その機能を求めてわざと溺れていた部分は否定できません。

「去年今年貫く棒の如きもの」というのをどう解釈するかですが、今年と来年が同じようなものであればまたフィクションに溺れてしまいそうな気がします。もっとも「棒の如きもの」なので棒とは虚子は言い切っていません。良い方向へ変質して欲しいと思うものの、バールのようなものになってるかもしれないわけで…ってくだらない話はさておき。くたばるまではぎりぎりまで続けるつもりでおります。どれほどの人が読んでいるのか確認もしなくなりつつあるのですけど、いましばらくお付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。

末尾になりましたが、良いお年を。