大磯へ

いまさらなのですが新型コロナのおっかないところは表向き無症状でも感染の可能性があって、知らず知らずのうちに他人を感染させてしまうかもしれないところです。だもんで、なるべく感染を拡大させないために「県境をまたぐな」という忠告はよく理解できるのですが、かといって、踏み倒すわけにはいかない法要の志納金等があってその支払いのために県境をまたいでこの週末の土曜、墓参を兼ねて神奈川県へ行っていました。両親が眠ってる寺では「梅雨明け十日の暑い時期に来なくても」といわれたものの「東京はいま千人台ですがじきに二千人台に突入してもおかしくなくて、まだワクチンうててないので、念のため骨になる前のいまのうちに来ました」と返答したら乾いた笑いがかえってきて笑いが取れただけよかったのですが、そのあと「東京はどうなるんだろうなあ」と方丈さんが呟いたのが妙に印象に残りました。なんだろ、茹でガエル状態で気がつかなかっただけかもしれぬものの、神奈川から東京を見たそのつぶやきがいまの東京の事態の深刻さを表してるような気が。

さて、そのまま深刻な東京へ戻るのも惜しいので

自動車だったので大磯まで足を伸ばしています。大磯は今年も海の家を中止してるので人はほとんどいません。その大磯で遅い昼飯にして、お金を落としてきました。

海と縁のない生活をしてるので海辺を散策するとテンションがあがります。

足許気を付けろ、と云われたその5秒後

ほんとに足許に波が。急いで後ずさりしてます。相変わらずそこらへんの目測はわかりません。天気は良かったのですが、少し荒れてたのかも。

神奈川の現場からは以上です。

裸の王様(もしくは行政指導のこと)

私は大学では塩ラーメンになぜごまがついてるのかの研究…じゃねえ、法学部生で、しかし(あほうがく部卒を自称する程度なので)法曹の道には進んでいません。就職してからも卒論で書いたテーマとは関係ない醤油ラーメンになぜ海苔が載っているのか…じゃねえ、たとえば道路法に関するような仕事をしていたことがあります。自治体との交渉をやっていた時期もあって、なので行政手続法に目を通す機会がないわけではありませんでした。

さて、行政手続法は、32条1項で「行政指導の内容があくまでも相手方の任意の協力によっての未実現されるもの」と書いてあって、2項は「その相手方が指導に従わなかったことを理由として、不利益な扱いをしてはならない」とも書いてあります。

休業要請や酒類の提供自粛などに従わない店に対して国が取引先の金融機関などを通して働きかける、というのを新聞を読んで、私は以前読んでたとはいえバカなので条文が咄嗟に正確には思い浮かばず、32条の条文の文言を確認してから「どうしてそんなことができるのだろう」と思っていました。時間の経過とともにその政策は撤回されることになりはしたのですが、発表するまで「それはできません」とチェックする人が・忠告する人が、居なかったとしたらそれはそれで限りなく裸の王様が権力を握ってる証明になってしまってる気が。

博多華丸大吉師匠の漫才は華丸師匠の独特の世界を大吉師匠がチェックして忠告することで笑いが生じます。不粋なことを書くと昔話をネタにした漫才では三匹の子豚に博多の工務店が介入してその異常さを大吉さんが忠告し・突っ込みます。チェックや忠告があるからこそ、異常なものがあっても人は笑えます。童話の裸の王様も、最後にチェックが入るから笑えるのです。

裸の王様が裸の王様だと最後まで気がつかぬままだとと笑えないし、周囲が気がついたとしても(「放っておけ」と)忠告しない状態もやはり笑えないものなのだな、と思わされたのですが、なんだろ、あんまりにも笑えないので、今回の件がほんとフィクションだったらよかったのに、とは思っちまいました。政治オンチがバレそうなのでこのへんで。

鯖寿司の記憶

たしか大学生の頃、親戚の葬儀のときに、なんでもいいから出来合いのものを何名分か買ってこいといわれてお金を渡されて、開いていた京樽だったか茶月だったか店名はあいまいなのだけど、いくつか寿司を買ってきました。その中にバッテラがあって、死んだ父は打ち合わせをしながら目はバッテラに向かい、こっそりバッテラだけを手許にもってきて死守していました。私の顔をみて「よくやった」という視線を小さく頷きながら送ってきたのですが、死んだ父がバッテラが好きであったのかどうかは訊いたことは無いのでわかりません。もちろん死んだ父と寿司屋に行ったことも無いです。

社会人になってから最初に放り込まれたのは大阪です。死んだ父も死んだ母も京都で八つ橋であるとか名古屋でういろうであるとかありきたりなものを買って帰るような真似をすることを嫌う人種で、なので東京に戻るときに阪神千鳥饅頭を買うわけにもいきませんでした。怒られそうなことを書くと大阪というのはそういう点で土産物にいくらか困る街で、悩んだ挙句551の豚まんのほかにバッテラのことを思い出して鯖寿司を買っています。鯖寿司が大阪の名物かどうかはそのときは考えもしませんでした。でも「天下の台所たる大阪で不味いわけが無かろう」と判断してのことです。その後もその組み合わせで買ったことがあります。

おそらくその店の鯖寿司は口にあったのだろうと思いたいです。が、鯖寿司の鯖の部分を炙って食べると美味しいとか、京都には鯖寿司の美味しい店があるとか、両親が居なくなってからそれらを知りました。溶き卵にお寿司…じゃねえ、時すでに遅しで、鯖寿司には「あのときもっとリサーチしとけば親孝行になったのではないか」という若干の後悔の念があります。

藤沢駅には鯵の押し寿司が駅弁として売っています。昔からあったものかどうかはわからぬものの鯖寿司のラインナップがあることに少し前に気がつきました。しかし鯖寿司には上記のような複雑な記憶がよみがえるので、この前もちょっと強めの〆加減の鯵のほうを買いました。もっとも藤沢の駅弁屋さんはハムとチーズのサンドウィッチがなぜか美味しいので、あったらそっちをとってしまいがちです。はてな今週のお題が「寿司」な(のでつらつら書いてきた)のに、それじゃダメじゃん

安政を繰り返すかもしれない話

中学高校で日本史をそこそこやっていて、しかし正直なところいまいちピンとこない点がいくつかありました。幕末に天誅組の変とか天狗党の乱などの尊王攘夷を掲げるグループができますが、なぜ彼らが攘夷、つまり外国人排斥を唱えていたのかが最近まで理解できていたかというと怪しかったです。諏訪に神州一味噌があるのですが諏訪に限らず日本は神州=神の国であるという思想があって、そのナショナリズムが攘夷とくっついたのかな、程度の理解でした。ただ、今年に入ってから「感染症の日本史」(磯田道史・2020・文春新書)を読んで感染症が幕末の攘夷に微妙にリンクしてることを知ります。

gustav5.hatenablog.com

ペリー艦隊が長崎に寄港した際にコレラ患者が居てそれが長崎から江戸などに飛び火した事実やその後も異国船の寄港が原因で麻疹などが猛威を振るっていたことなどを「感染症の日本史」で知ると、水際対策などない当時ナショナリズムではない別の種類の外国人排斥の機運が当時あったとしてもおかしくないように思えます。

話はいつものように素っ飛びます。

10日付の毎日新聞の書評欄に磯田先生が「安政コロリ流行記」(白澤社)という仮名垣魯文の書いた幕末のコレラ流行に関するの本の現代語訳を取り上げていていました。前半には米の給付であるとか死亡者数など詳細な記録が載りつつ、後半は磯田先生は現代人には理解不能な記事のオンパレードと評してるのですが、事実に基づかないもの、たとえば狐狼狸(←これでコロリと読む)なる獣などが登場するそうで。磯田先生は歴史学者ですからおそらく困惑していたのではないかと推測するのですが、所属する組織の(建築の専門家である)井上章一先生から、事実から派生する「尾ひれ」の部分が重要で、事実ではない「尾ひれ」がどのようにつくか、そこに人間社会の本質があらわれる、との示唆を磯田先生は受けます。つまるところコレラという事実からでた尾ひれが事実ではない架空の獣の狐狼狸で、幕末はコレラが可視化できませんから架空の獣を想像して共有化してたのであろうと磯田先生は述べます。詳細は毎日新聞をお読みいただきたいのですが、幕末の攘夷運動は異国人を狐や狼や狸を扱うような妖術遣いと見立てたことによる深層心理が働いていて「尾ひれ」が歴史をうごかしたのではなかったか、とも磯田先生は述べています。また正気の沙汰ではないコロナ禍の東京五輪に目を向け、恐怖が国民に植え付けられれば幕末同様の歴史を乱すに値する何らかの深層心理が生じるのではないか、と最後に問いかけます。最近毎日の書評欄は書評というより時評的なものが多いな、と思いましたって私の感想はともかく。

噴飯ものの「ワクチンをうつことで5Gに接続できるようになる」というのもなにかしらの「尾ひれ」と考えると(理解したくないけどすこしは)理解でき、磯田先生の記事は読んでいて腑に落ちるところがありました。でもってもし磯田先生の仮説が正しかったとしてなにが起こるのだろうか?というのは良い結果は出そうにないのであまり想像したくありません。いまのところコロナという事実からでてきた「尾ひれ」でもある妖怪のアマビエが居るものの我々は異国の人を妖術遣いとがおもっていませんが、やはり歴史を紐解けば考えられるのは幕末のような感染拡大の末の攘夷で、同じ道をたどっての外国人排斥は決して好ましいとは思えないのですけども。

たびたび話がすっ飛んで恐縮なのだけど、読んでていまある現実とフィクションの世界って近接してたらよかったのにな、とか、くだらないことをちょっとだけ考えました。異世界に転生すれば・世界線がかわれば・妖怪が出てくれば、とかのフィクションだったら答えが出そうな気がするからです。もっとも現実には異世界へ転生できず・世界線が変わらず・妖怪も出てきませんから、地獄なのですが。

なんだろ、ほんとフィクションだったらよかったのに、という現実が増えちまった気が。

8日ヨーカドーで

神奈川の一部地域の場合は盆は7月で、その時期に施食会という法要をします。私は両親が居ないので墓参を兼ねてなるべくその法要は参加するようにしていたのですが、寺の本堂に十人以上の僧侶が集まって(小さな鐘のような引磐、太鼓、シンバルのような饒祓をチンドンシャンと鳴らしながらなのでいくらかやかましい)読経をし、梅花流という御詠歌を詠う人がやはり十人以上、さらに私のような信徒が狭い本堂に入るのでどうみても密で(さらに比較的年齢高めなので)、去夏から山内関係者のみの法要になっています。三代目三遊亭圓歌師匠は「中沢家の人々」の中で修行中に心筋梗塞を起こして病院へ行ったことを「寺から病院へ行ったのは俺だけだ」とシャレにしていましたが、仏教用語ではない三密でクラスターを起こして僧侶や信徒が寺から病院へって図はシャレになりませんからやむを得ません。疫病は確実に信仰の現場に変えてます。

毎年、法要のその日に志納していました。去年は「盆に来てくれるな」というお願いがあったので盆が明けた7月下旬に行っています。今年も同じなのですが、去年と異なるのは来月22日までより強い緊急事態宣言発令中でなるべく県境をまたぐなといわれてることで、かといって来月15日までに納めて欲しいといわれてる法要の志納金を踏み倒すわけにもいきません。小田急線で登戸過ぎたあたりで引き摺り下ろされて検問を受けて私は東京在住で相鉄ローゼンのウェルカムカードを持ってないので神奈川県民でないことがバレて新宿へ強制送還されるってなことはありませんから、検問がないうちに…じゃねえ、そのうち時期を見て県境を跨ぐつもりです。

さて、金銀銅のメダルをルパン三世が盗んで五輪自体が中止にならないかなとか、メダルを手にしたルパン三世が府中から山中湖方面にFIAT500で逃走して銭形警部が埼玉県警のブルーバードで追っかけることで都道が封鎖になって自転車レースが中止にならないかなとか五輪に関してあれこれ不謹慎なことを考えてしまうのですが、それは横に置いておくとして、尾身先生が云う「人流を減らすべき」というのは理解してるのでスーパーに寄る回数を減らすために(たとえばガーリックバターで炒めるのを想定して冷凍インゲンと竹輪とか、無限ブロッコリを想定してツナ缶と冷凍ブロッコリとか)冷凍野菜であるとか日持ちしそうな練り物や缶詰などは再び備蓄しはじめています。いまのところは幸いなことに近所のヨーカドーは意図的に在庫を積み増してくれてるようで、第一波の頃と異なり欠品ほぼありませんでした。夜も食品売り場だけは22時まで開けてくれてるのでありがたい限りであったり。ワクチンは未接種ですが、なんとかして第五波を乗り切りたいところ。

マスクの話(2021年7月)

私は医師や看護師ではないのでこれから書くことは話半分に読み流してください。

去秋くらいから常にではなくたまになのですが、そのあたりから片頭痛というか頭に脈打つのような痛みが来ることがありました。耐えられないことはないけどひどくしないためにそして経験則で「風邪かな?」と思うとカイゲンを服用するのですが、その痛みにはわりとカイゲンが効かないことが多く、(私は低気圧になると調子がおかしくなることがあるので)気圧かなにかのせいなのだろうと思っていました。

このまえの土曜日、東京は雨が降っていて気圧も低めだったのでもしかして頭痛がくるかなあ、と構えていたのですがなんともありませんでした。そこでなんとなく「あれは気圧由来のものではないのでは?」という疑問が湧きます。思い当たるフシはマスクです。私は去秋あたりからウレタンマスクを止めて不織布マスクを通勤時や勤務中は着用しています。土曜もマスクをして外出はしたのですが(都民なので)不在者投票と食料品を買い足しに行った程度です。もちろん外出していないときはマスクをしていません。まさかと思うけどあの頭痛はもしかしてマスク由来なのではあるまいか?と思い至ります。理屈としては吐いた二酸化炭素不織布マスクが邪魔をして完全に抜けぬまま、それをまた吸う可能性が高いわけで。

上記のような仮説を夕飯時に半分冗談として話すとなにか思うところがあったらしく、スマホで検索しだし、その仮説(二酸化炭素過多)がありえないわけではないことと、耳に掛ける紐が細いとき圧迫して頭痛を引きおこす可能性もあることを知りました。

勤務中や通勤途上でさすがにマスクを外すわけにはいきません。ただ手許にあるのが耳に掛ける紐の細いマスクであったのでとりあえず

耳に掛ける部分の太いマスクを買っています。昨日今日と頭痛はなかったのですが、(私は賢くないので夏風邪も想定して)カイゲンも一応カバンに入れておきながら、しばらく様子を見ます。

「東京を前へ」雑感(もしくは個人的に気持ちの悪い言葉)

野球と政治のことは書くつもりはなかったのですが、都議選で思うところがあったのでちょっとだけ禁を破ります。

いま住んでいる街では都議選である候補者が「東京を前へ」と不思議とよく連呼していました。それが気持ち悪く感じて都議選の間はひっかかっていました。くだらぬことにひっかかったのかもしれません。ただそのままだともっと気持ち悪いので、紐解きます。

「〇〇を前へ」というのは、それだけ聞けばポジティブに聞こえます。しかしながら「なぜ、なにを、どのように、前へ進めるか」というような具体的なことを問われる選挙戦において、それらすべてすっ飛ばした「〇〇を前へ」は単にポジティブに聞こえるだけでなにも考えを言ってないのと同じで、加えて、一見してポジティブに聞こえるゆえに前に進むことを否定すれば印象が悪くなることからそれを盾にして間接的に問答無用で白紙委任しろという意図が見え隠れしてて、まだ恫喝のほうがすがすがしいくらいに思え、計算された言葉のいやらしさが気持ち悪いと感じたのかも、と分析してます。

曖昧な短い言葉で言葉を尽くさぬその方針を本人が意図的にやってるのか、それとも党の意向なのかわからぬものの、怖いな、と思っちまったり。

言葉というのは考えを他人との共有化を図るためのツールです。人は言葉を尽くして説明することがあります。人間が二足歩行する動物と異なるのはそこらへんです。しかし言葉を尽くさないでこの人当選すると思ってるのだろうか、と駅頭に立つ候補者を遠くから眺めていたのですが案の定、当選していません。ひねくれてるので・相撲好きなので「前へ」といわれて脊髄反射的に「いなされたらどうするんだろ?」とか愚考したのですが、候補者は議会に行く前に私を含む有権者にいなされてしまったわけで。

話をもとに戻すと、政治の話をしようとしてなんだかひっかかった言葉の話になってしまったのですが、地方議会のこととはいえ今回の選挙、ささいなことなんすけどちょっと考えさせられました。