蚊のこと

報道を眺めてると気が滅入るので今日も今日とてくだらない話を書きます。

以前住んでいた街は東京の郊外でも私が十代の頃は近くに雑木林が残っていました。雑木林は蚊がけっこういて住んでいた家の周囲にも雑木林があり、したがって蚊に悩まされていました。加えて書くと裕福な家ではなくエアコンがありませんでしたから夏の夜は網戸に扇風機が頼りでその中でパンイチに近い格好で勉強していて、しかしどこからか蚊が入ってきてしまうので、気がつき次第、音が聞こえてくる方向へ殺虫剤を手に蚊に向けて噴射し、気が済んだところで再度問題集を手に集中していました。いまでも変に瞬発力と集中力があるのはそんな環境で鍛えられた賜物です。幸いなことにいま住んでいるところは緑が多いわりに不思議と蚊がまずいません。その環境に慣れきってしまってて、はてな今週のお題が「住みたい場所」なのですが、蚊がいないところのほうが良いです。

もっとも仕事とか関係なく、別のところに漠然と住んでみたいと思ったことがないわけではありません。

東京から東海道線で1時間もかからないところに茅ヶ崎というところがあります。風光明媚なところで、30年近く前に亡くなった開高健さんが茅ヶ崎東海岸ラチエン通り沿いに自宅を構えていました。その自宅はいま記念館になっています。初めて訪問したのは夏の終わりでエボシ岩が見えるラチエン通りを歩きながら、作品の細部を練りながらこの道歩いてたのだろうか…などと想像しつつ海も近いのでなんとなく「こういうところに住んでみたいな」と実はそのときはちょっとは思っていました。ところが開高健記念館に入ったとき、館内に電気式の蚊取り器が置いてあって、文学に関するところでこういう質問するのは野暮かなあ…と考えつつ「蚊が多いのですか?」と尋ねたら、雑木林は無くても茅ヶ崎ラチエン通りのあたりは蚊がわりといるようで。開高さんが蚊の存在とその対策をどのようにとって書いてらしたか読んだ記憶がないものの、思い付きの茅ヶ崎の海岸近くへの移住の夢は消えています。

京都に旅行で訪れてるうちによいパン屋があるのを知り機会があったら住んでもいいかな、と思ったことがあります。ただしかつて仕えた京都出身の上司は夏の京都について「あぶら照りでじりじりと暑い」といっていて京都に幻想を抱く私を戒めていたのですが、でもまあ、東京は灼熱地獄だし油照りくらい耐えられないこともないかな、とシロウト判断をしていました。しかし一昨年の夏、綾小路の杉本家住宅(京都の古い商家建築が残る建物)を見学したとき、屋内に電気蚊取り器があちこちに置いてあって蚊の気配を察し、杉本家住宅で案内をしてる方に建築以外のことを質問するのは野暮かなあ、と考えつつ「蚊が多いのですか?」と尋ねたらやはり雑木林のない京都の街中にも(蚊がどこから来るのか謎なのですが)そこそこ蚊は居るようで。寝ているときは蚊帳があればなんとかなりそうな気がしますが蚊帳の中で生活するわけにもいきませんから、思い付きの京都移住の夢も諦めています。

いま住んでいるところは風光明媚でもなければ美味しいパン屋もありません。ヤマバトが目覚まし時計より前に窓の近くででーでーっぽぽーでーでーっぽぽーでーって鳴くと「勘弁してよ」と思います。でも蚊がいないのはなによりもありがたく、住処を変えるつもりはなかったり。

形式的な挨拶が形式的な挨拶になってない状況

仕事の都合で別の会社の人と話す機会があって、本筋の話が終わったあとにやはりワクチンの話になりました。その人の会社も職域接種をしたい意向はあったらしいのですがどうも足踏み状態のようでいつになるかわからないらしく、最後はワクチンの話に引き摺られてお体に気を付けて的な挨拶になってます。形式的な挨拶といえば形式的な挨拶なのですが、東京の感染者数が増えてることもあってお互い真顔に近く、こういう時って形式的な挨拶が形式的な挨拶になってない気が。

職域接種の混乱、あちこちで起きてるようで。でもって、混乱を眺めてて「もしかして?」という期待を持たせておいてぶち壊すの、ほんと罪作りだよなあ、と。

「やがて君になる」を読んで

匿名を奇貨として書きにくいことを書きます(匿名を奇貨としていつも書きにくいことばかり書いている気がしますが)。

以前citrusという女子高生の恋愛が主題のアニメを途中から偶然視聴しました。原作を買いに行ったときにそばに置いてあって目にしたのが「やがて君になる」(仲谷鳰KADOKAWA電撃コミックスNEXT)です。そういうコミックスがあることは知っていて、でもなぜか手を出さずにいました。はてな今週のお題が「一気読みした漫画」なのですが、第4波に入ってから啓文堂で手をのばしてしまい、週一ペースで買っています。やはり女子高生の恋愛が主題のコミックスで、これを書いているのはくたびれたおっさんで、くたびれたおっさんが女子高生の恋愛模様のコミックスを読んでその感想を述べるというのは冷静に考えると気色悪いことこの上ない気がします。だから単に「面白かったです」で済ませれば平和にすべてが終わりそうな気がするものの、でもそれだけでは終わらすのがもったいない気がするので書きます。くたびれたおっさんがこれを書いてると思うと読む気が失せるでしょうから、しばらくのあいだこれを書いているのが絶世の美青年だと思ってくだされば幸いです。

きわめて不粋なのですが1話の一部を少しだけ書きます。主人公の一人である小糸侑は主人公の一人である生徒会の先輩の七海燈子が男子から告白を受ける場面に遭遇し七海先輩はそれを断るのですが、その理由を聞いて共感します。その後小糸さんは七海先輩から想定外の言葉を投げかけられてしまうのですが、この先は読んでいただくとして。

恋愛というものやその心境変化とかは(誰もが同じ体験をするわけではなく)人それぞれのはずなのですが、しかし小糸さんは(未知の経験ゆえに)どこかに正解があるような気がしてならず、その正解とされそうなものと比較して自らの状況がそれらから遠いことにどこか不安をおぼえていました。1巻ではその描写が極めて巧みです。と、同時に、完璧を装っているように見えた七海先輩は小糸さんと居ることで下品な言葉を使えば少しずつ壊れ・上品な言葉を使えば完璧でないことを少しずつ隠さなくなります。

巻数を追うごとに小糸さんもだんだんと変化しますし、七海先輩は自らを抑える余裕を失ってゆきます。全8巻ですがそこらへんの描写がきわめて巧みで、度数の高い酒を呑んだようなヒリヒリ感を覚えながら最後までダレることなく読み通しています。読んでて改めて自覚したのですが、人が変化してその過程を丹念に追った作品に私は妙に惹かれるようです。これ、映像で見たいなあ、とおもってたら青ブタと同時期(2018年秋)にアニメになっていました。

蛇足なのですが、物語の進行に即してでてくる登場人物がきわめて魅力的です。

一人は七海先輩のそばにいる限りなく主役に近い準主役っぽい佐伯先輩です。七海先輩に頼られることに優越感を持ちつつ、七海先輩が自らの意思で意図的にに距離を縮めようとする小糸さんに対して途中まで複雑な気持ちを抱えます。空気を読んで周囲を見まわして最適解を探して実行してしまう頭が良いゆえの優等生で、もし続編があるのならこの佐伯先輩のを読みたいと思わせる程度に、(私は頭が良くはありませんが判官びいきなとことがあるせいか)不思議と親近感を覚えました。

もう一人は槙くんという表面上は沈着冷静な男の子です。小糸さんと仲が良く、ゆえに小糸さんが抱えてしまったことを誰にも言わない義理堅さをみせるものの、代わりに傍観者として特等席で事態の推移を見守ろうとします。ある意味イヤなやつなのですが、その感想は物語を傍観するこちらにブーメランのように刺さるわけで。

現実逃避っていってしまえばそれまでなのですが、この時期によくできた物語に触れることができたのは・世俗のことを忘れることができたのは、ラッキーだったかも。そう思わせるだけの作品ではあったり。

江ノ島へ

吉祥寺のそばに井の頭池というのがあって、池のほとりに井の頭弁財天があります。井の頭池はいわゆるデートスポットなのですが私が学生の頃は井の頭弁財天が嫉妬するので井の頭でデートすると別れる、という都市伝説がありました。男女じゃなくて男二人で行ってひざ枕するとどうなるのかとか実験したヤツの話は横に置いておくとして、そんな弁財天を横目に育ちましたから神様というのは努力するやつには背中を後押しするけどなんでも叶えてくれる万能の神様ではないことをなんとなく悟ります。とはいうものの、ワクチンの接種券は届いたものの職域も地域もどうなるか不透明になってくると・どう考えても五波がきちまいそうなので、極めて非科学的ですが(感染対策は自らしっかりするものの)神様に頼んでおこうかくらいのことは考えちまってて、なので緊急事態宣言明けで県境を跨ぐことに消極的になる理由も薄れたので

江ノ島へ行ってきました。江ノ島なのは(海が観たかったというのもありますが)去年、感染が急に広がる前に最後に寄った神社らしい神社が弁財天も祀る江ノ島江島神社だったせいです。

画像は参道の青銅の鳥居にあった茅の輪もどきなのですけど辺津宮には疫病退散を兼ねたちゃんとした茅の輪があって、(生き延びれたお礼を述べた)参拝ののちくぐっています(順番を待つ程度にくぐる人が居ました)。

井の頭の弁財天は嫉妬することになってるのになぜか江島神社の弁財天は縁結びで有名です。県民性の差なのか、いくらか謎なのですが謎は謎のまま置いておくとして。

中津宮にあった燈篭なのですが、よくみると江戸の歌舞伎小屋である中村座の文字がありました。弁財天は芸能の神様であるほかに、考えてみたら東姫桜文章も白波五人男も江ノ島ゆかりで、小屋の寄進があっても不思議ではありません。ついでにかくと奥津宮の拝殿の上には酒井抱一のカメの絵があって、それも今回気がついています。匿名を奇貨としてちょっとした恥を書くと前回来た時には藤沢が舞台の「青ブタ」に出てきた場所をそれとなく探していたせいもあって気がつかなくて、作品の中に出てきた「人間は見たいようにしかものしか見ない」というのを改めて間接的に実感してます。

階段を上がり下がりしながら中津宮、奥津宮と参拝するとけっこうな運動量で、マスクしながらの上がり下がりですから適度に小休止しています。

その小休止のときにみかけた(おそらく)サンゴシトウ。なんだか南国っぽいな、渡り鳥が種子を運んできたのかな、と現地では勝手に云ってたのですが、あとでしらべたら園芸交配種でした。あははのは。

昼飯がまだだったので島内で生シラス丼を食べてて、お金を落としてきました。

なお、辺津宮へ至る参道が狭いのでそこだけは人が密集してしまいますが、それ以外は島内は比較的人は少なめです。現場からは以上です。

「夫婦別姓を認めない民法と戸籍法の規定は違憲であるとする訴訟」の雑感

氏の話をするとややこしくなるのですが、国民すべてに氏を名乗るように強制するようになったのは徴兵制ができた明治8年太政官布告からで(徴兵制に付随して戸籍も整備され、極端なことを云うと氏や戸籍は富国強兵の副産物です)、31年に旧民法が成立するまでは婚姻した場合でも形式上は実家の姓を名乗ることができ夫婦別姓でした。旧民法は先行した戸籍制度を活かし婚姻に際して家を同じくし同じ氏を名乗るように規定します。それがいままでずっと続く夫婦同姓の制度です。明治民法下では家の戸主が一定の権限を持ち戸主の同意を得ずに婚姻した場合、その家から離籍させることができました。しかし現行憲法下および現行民法下では家の戸主という制度は消え、婚姻は「両性の合意のみに基いて成立」(憲法第24条1項)するようになっています。しかし、戸籍制度を残して民法家族法をもたれかかせたままで民法を大改編したわけではないので、明治31年以前のような夫婦別姓にはもどっていません。「夫婦は婚姻の際に定めるところに従い、夫または妻の氏を称する」(民法750条)こととなっています。

わたしはいまではくたびれたおっさんですが美青年だった学生時代…じゃねえ、くたびれた学生時代から、夫婦別姓について議論があったと記憶しています。夫の氏を称する事例が多くそのことから以前はよく男女平等の観点からも云われててそれはそれでわからないでもないのですが、かといって、同氏制が当然に平等ではないというと「ほんとうにそうなの?」とも思えてて(男女平等からはそこに帰結しないのでは感がぬけなくて)、あまり深くは勉強していません。ただ、同じ氏を名乗ること=家族としての共同体の表示への必要性というのは人によって差があるのもわからないでもなく夫婦別姓を求める人の意見などを読むと、それも理解できなくもなかったりしますって、ゆらぐ不勉強なわたしのことはどうでもよくて。

不勉強なものの新聞等に載る夫婦別姓に関する訴訟の記事は目は通していて、実は平成27年の訴訟についてはちょっとひっかかっていました。というのは憲法24条について「婚姻は当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨である」(最判H27・12・16民集69巻8号2586頁)と最高裁判決理由中で述べていて、夫婦別姓から若干離れるのですが24条は同性婚を全否定したものとも思えず、同時に、夫婦別姓についても全否定とも思えないけっこう興味深いことを述べているのです。

23日に出た別姓に関する訴訟の大法廷判決について、平成27年判決理由中の文言が維持されてるのかどうかが判決全文を読んだわけではないのでわからないのだけど、毎日新聞の24日付の記事を読む限り、夫婦別姓を認めないのを違憲とした裁判官4名のうちの2名(宮崎裕子裁判官・宇賀克也裁判官)の補足意見の中の「夫婦同姓を受け入れない限り当事者の婚姻の意思決定を法的に認めないとする制約に合理性があるとはいえず、不当な国家介入にあたり24条に違反する」というのは、どうも上に挙げた前回の判決理由の延長線上にある気がしてならず、また個人的には腑に落ちるものでした。ただ違憲判断が多数意見にはならなかったのは(平成27年判決理由中の文言を好意的に評価していたせいもあって)個人的には残念ではあったり。

もっとも15名中7名の補足意見がつくのはおそらく相当激論があったはずで、また合憲の判断に傾いたもののうち3名の裁判官が補足意見として「夫婦同姓の規定が国会の立法裁量を越えるほど合理性を欠くと断ずることは困難」という表現で夫婦同姓の合理性について述べているのが興味深く、つまり15名中7名が夫婦同姓について最高裁の裁判官さえなんらかの疑義を示しているわけでそこらへんを含め、また社会の変化などを改めて考えると、明治期から続くこの国の婚姻に関する制度や戸籍制度を含め、なんらかの是正措置はやはり必要なのではあるまいか、とは不勉強ながらも思うのですが。

「もし100万円があったなら」

何度か書いてるはずですが視力はあまりよくありません。コンタクトレンズ(ハード)は30年以上の付き合いです。ただ厄介なのは眼球がいくらか通常とは違うらしく「あなたにぴったり合うレンズはありません」と宣告をうけていて、次善の策として「まあまあ合うもの」を使っています。まあまあ合うものではあるのですが完全ではなく、たとえば勤務先などで人前でしゃべってるときであるとかふとした拍子に眼球とまぶたのあいだに潜り込んでしまうことがあったりします。さすがにもう慣れっこでそういうときでもポーカーフェイスを装いながらその場を切り抜けてはいます。まぶたと眼球の間に潜り込んでくれればまだ良いほうで、(コンタクトレンズは生物ではありませんから意思をもつわけではないけど)レンズがどこかへ行ってしまうことがあります。(よいこのみんなはわかんなくていい)いたすことをいたしてるときに外れたことがあってその瞬間を自覚し・目撃し、2万円近くするので・目撃したほうもそれを知ってるので、捜索したこともあります。全裸でものを探す・全裸で謝る経験なんてしたくはなかったのですが…ってそれほど多くの人のがしないであろうハードな目の経験を語りたかったわけではなくて。

はてな今週のお題が「100万円あったら」なのですが、もし可能ならばオーダーメイドで眼球に合うコンタクトレンズを注文したいってのがあったりします。もっとも作れるかどうか・100万で済むかどうか、ちょっとわからないのですが。

なので100万円以下で済みそうな(くだらない)ことを。

犬猫どちらが好きかと問われれば猫派です。猫を飼うほどには至っていませんが猫がいれば(彼らは目を合わすと警戒しだす気がするので)目が合わないようにしながら観察します。世の中には猫カフェというのがあるのは知ってはいるのですが深く調べることはせず、単に猫がいるカフェというだけなのかな、と思っていました。去夏までは。

去夏「宇崎ちゃんは遊びたい!」という夜にやっていたMXのアニメを(コロナ関係の報道番組を眺めてると鬱屈としてくるので)途中から眺めていて、宇崎ちゃんが慕う桜井先輩が猫好きで猫カフェに行く野望を持っていたのですがひとりでは行けず、宇崎ちゃんを口説いて猫カフェへ行く回(「猫カフェと居酒屋で遊びたい!」)がありました(桜井先輩の話し方がとても興味深かったのですが語りたいのはそこではないので詳細は原作をお読みください)。そこではじめて猫カフェが、猫は嫌がらなければ触っても良いことや場合によっては猫がひざの上に乗ってくることなどを知り、いいなあ機会があれば行ってみたいなあと思いつつ、果たせていません。桜井先輩と同じで猫カフェは男にとって敷居が高い・入りにくいと感じています。桜井先輩と異なるのは(親しい同性はいますが)親しい異性の後輩は居ません。

そこでもし100万円があったならという設題に戻るのですが。

100万のうちいくらかを使って・金の力でブイブイいわせて、猫カフェを1時間くらい貸し切りにするか、もしくは、いわゆるジェンダーに反するかもしれませんがきっと同胞がいるはずなので女性禁制男性のみにしてもらって、猫に触ってみたい・猫と触れ合いたい、というのはあったり。これ、100万以下でなんとかなると思うのですが、どうだろ。

浴場に居る透明人間の存在の問題(もしくは問題を問題と思っていない問題)

21日付の毎日新聞東京版に韓国の新聞の元東京特派員だった方(李河東朝鮮日報国際部長)の署名記事が載っていました。その中で日本赴任中での出来事として、温泉やスポーツクラブの浴室などで清掃などで入ってくる女性の存在について書かれていて、最初は衝撃を受けていたのだけどそのうちほかの日本人と同じように「まるでその場にいなかったのように」対応し習得し、それを活用していたと告白しています。と同時に誰もが会話をせずそこに居る人を「透明人間のように扱う」ことの違和感を率直に述べていました。加えて深刻な問題なのでは?という問いかけをしています。

私は視力がよくなくてコンタクトレンズをしていますが、風呂に入っているときはさすがに外しています。入浴前後のことをしっかり記憶してるかというといくらか怪しいです。記事を読んで思い出せる限り視力が悪いので視認した記憶はないのですが、云われてみれば塩原か鬼怒川か下部かどこかの温泉の浴場で入室の断りの口上をする女性の声がしていたことは記憶があります。確かに誰かと会話してる様子はなかった記憶が。それがどこが問題なのかと問われれば、そこに居ても居ないような扱い≒人として扱ってないのに限りなく等しいわけで。

記事では違和感を日本人や日本の女性にもぶつけています。「男性浴場に女性が入ることは問題ないが、その逆は許されない」という意見があったことを紹介しながら「日本の文化の特殊性と考えているようだった」とも書いています。と同時に、男湯に居る透明人間の女性という問題と日本人女性の地位が他国に比べて低いことが関連しているのではないかという問いかけをし、女性の尊重・女性の地位向上について述べられていて、加えて文化の特殊性に言及することは女性軽視につながるのではないか、とくぎを刺していました。

読んでいて持っていたコーヒーを置き直す程度に熟読しちまい、個人的にはとても腑に落ちる記事で・同意すべき点が多かったです。それで済ませても良いのですが正直に書くと、「男性浴場に居る透明人間の女性」ついて実は恥ずかしながら記事を読むまで違和感すら意識してなかったことを告白します。「男性浴場に女性が入ることは問題ないが、その逆は許されない」というのも一瞬妥当かもしれないと考えてそれは最初に断定があって断定ゆえに思考停止に陥ってるだけでは?と数秒後に気がついて、おのれの思考の浅さを恥じたのですが。

話はいつものように横に素っ飛びます。

記事を読んでいて以前読んだ(ラノベの)青ブタのなかの

「私自身も空気を読んで、さも正しいことのように受け入れていた。何の疑問も抱くことなく」

「逆に、疑問に思わないからできるんだろ。何かまずいことをしているっていう自覚があれば、案外その通りに動かないんじゃないか」

青春ブタ野郎はバニーガール先輩のゆめを見ない」P267

という部分を咄嗟に想起しました。物語の中で登場人物の、問題を問題と思っていない集団の一員として無意識にやってしまってることへの告白とそのフォローです。空気を読んで自覚なく無意識でやってしまうからこそ気がつきにくく、ゆえに厄介です。そこらへんについてフィクションで予め読んでいたので、今回の記事がより腑に落ちたのかもしれません。もちろんフィクションでは問題は解決します。

が、フィクションではなく実際にあることで、問題を問題と思っていない無意識でやってしまってること・それを誰も疑問に思わないこと、加えて空気のようなとらえどころのない文化の特殊性という思考停止に陥りやすい言葉を前にすると、指摘された課題の解決にはなんだかすごく道が遠そうな気が。