「感染症の日本史」を読んで

第4波が来る前ではいくらか遅すぎるかもしれぬものの、「感染症の日本史」(磯田道史・2020・文春新書)を読みました。前から書店で平積みされて存在は知っていたのですが「日本史をなぞってもなあ」と考えて手をのばさずにいて、しかしヒヤリハットとは云わぬものの失敗事例集と思えばよいか、と手をのばしました。磯田先生は日本史が専門ですから本書では古代から近現代に至るまでの感染症の歴史をかいつまんで触れられています。読んでからわかったことですが、本書の最大の効果はおそらく「前の車の転覆を知って、その失敗を避けること」(P6)を意図してると思われます。そのほかいくつもの興味深い記述があり、なかなか手をのばさなかったおのれを恥じています。

本書で(磯田先生の恩師がその研究者だったこともあるのですが)何度も出てくるのが大正時代のスペイン風邪に関するものです。原敬(第7章)、永井荷風志賀直哉斎藤茂吉(第8章)が残した文章を通してや、新聞の黒枠記事などに触れた京都のお寺に住んでいた女子学生の手記の要約(第6章)を通して当時の状況を浮かび上がらせています。そして当時の政府の動きももちろん触れられています、米国のサンフランシスコ駐在の領事がサンフランシスコの強い規制の取組事例を翻訳し外務省に連絡し外務省経由で内務省衛生局にもたらされるのですが、当時の原内閣はそれを真似ることはしませんでした(P57)。第一次大戦下で米騒動が起きて民衆の不満をおそれ、政党内閣ゆえに選挙を気にしなければならないことなどを含め強い規制をとれなかったのでは?という理由も推測されていてはいるものの、結果として本土だけで45万人が死亡します(P58)。45万の数字ははじめて知ったのですが関東大震災の死亡者が10万5千人強なのを考えるとかなりでかい数字で、確かに「前の車の転覆を知って、その失敗を避けること」(P6)をしなければまずいのでは?とも思えます。「最善と思われる対策事例があれば、どんなに手間でも、政府は、力の限り、それを真似たほうが良い」(P60)と歴史家として磯田先生は述べていて、非常に明快です。ただ、いまのところ前の車の転覆を知っても(原内閣の頃と同じく選挙を意識せざるを得ない政党政治である以上は)同じように転覆してしまいそうな気がしてます。これが杞憂に終わればいいのですが。

ちょっと脱線します。

感染症の歴史と日本史が微妙にリンクしてることを本書で知りました。現代の新型コロナの第1波の時は海外からの飛行機が飛んでくる空港がある・海外からの客が多く宿泊したであろう東京の感染がまず拡大し地方に波及していましたが幕末でも似たようなことが起きています。海外との窓口から感染が広がり各地の波及するのです。本書では「感染症の世界史」(石弘之著)を引用する形で安政5年(1858年)のコレラはペリー艦隊に感染者が居て長崎に寄港してそれが江戸などに飛び火したこと、開国が感染症を招いたと考えられ怨みが黒船や異国人に向けられた(P24)ことに触れています。さらに文久2年(1862年)になると長崎にやって来た異国船から麻疹がつたわり4月に長崎警護を担当していた佐賀藩の藩主が罹患し(P122)、それが移動する修行僧によって江戸にもたらされ6月には小石川の寺院がクラスターとなり(P119)市中感染が拡大し日本橋を越える棺が200に及ぶ日があり、京都でも商業地から御所周辺に拡がり天皇の身のまわりの世話をする公家が次々と感染し出仕できなくなり御所も当然人手不足気味になり孝明天皇が閏8月にあらためて攘夷を強く意思表示するに至ります(P128)。これらのことは・攘夷にまつわる背景については、ほぼ無知に近かったので読んでて目から鱗でした。

さらに話がすっ飛びます。

この文久2年に妙にひっかかり、死んだ父が残した江戸期から続く家の過去帳を引っ張り出してみると(震災に遭遇した曾祖父以外はなにで死んだかは書いていないので)死亡原因は不明ですが、文久2年8月に6代目の子が17歳で死亡しています。時期的に麻疹と推測するのですが、東海道に比べ往来が少ない甲州街道沿いの甲州の村にも影響があった(とする)なら長崎佐賀京都江戸に限らずおそらく全国的に蔓延していたのではないかと思われ、ずっと攘夷運動が激しくなったのはなぜなんだろうと不思議だったのですが、開国が疫病拡大の原因と思われていたなら孝明天皇に限らずある程度の人が攘夷的になっても・観念的でない攘夷運動があちこちで広がっても、ちっとも不思議はないような。

話をもとに戻します。

衛生史や医学史は多く研究がなされてるらしいのですが、磯田先生はパンデミックの研究をするうえで患者史が欠けていて、(いつ、どのようにして、周囲にどれくらい拡がったかなどの)個人のみた証言が極めて重要であると述べています(P152)。本書ではそれに沿って第6章で京都の女学生の手記の要約があります。恵比寿講は例年通り行われ四条通が混んでいたこと(P159)、周囲の友人が(濃茶を回し飲みすることにもなる≒)茶道の稽古を休むようになったこと(P160)、学校が休みになったこととそれを羨む弟の記述(P161)、友人の母の死亡と新聞の死亡広告が増えたこと(P164)、その状況下でも第一次大戦終結の提灯行列があったこと(P167)なども記述されています。詳細は本書をお読みいただきたいのですが、書いた人は後世の誰かに伝えるために書いたわけではありませんが、百年近く経ったいま、われわれが当時の事例を知って対策を立てるのに役に立っています。なんだろ、それを読んでいて市井で生きる我々の行動の記録やその目線からの感想というのは感染した・感染しなかったに関わらず残しておいたほうが良いのかも、とは思いました。

さて、この私の記事を読んで本を買う人は少ないかもしれません。でももしそんな人が居たら、の話ですが、可能なら元号と西暦の対照表を手許に置いたほうが良いかもしれません。西暦が書かれてるところもあるのですがそうでないところもあって、恥ずかしながら享和とか文政とか江戸のいつくらいになるかがまったくわからず、読む手を止めて検索してメモしたりしていました。書かなければ私の知識の無さを隠せたかもしれないのですが、念のため書いておきます。