『豪商の金融史』を読んで(もしくは破たんを回避するための第三者の目の必要性について)

今年に入ってから『豪商の金融史』(高槻泰郎編著・慶応大学出版会・2022)という本を読んでいます。本書は大阪の豪商であった加島屋(廣岡家)について江戸期から明治にかけて追った本で、特に幕末から明治大正まで大坂の豪商として加島屋がどのように生き抜いたかについてが主題で、史学科卒ではない上に経済史に詳しくないので知らない分野ゆえにとても興味深かったのですが、恥ずかしながら主題ではないところにも目が行ってしまっています。いつものように話が横にすっ飛んで恐縮ですが、つい読み耽ってしまったのが廣岡家の残した書類を基に明らかになった江戸後期の天保年間の中津藩との取引です。

中津藩の平均的な収入は米14万俵に対し支出が24万俵で差引10万俵近い赤字がでていて(P116)=つまり単年度収支を均衡させることが出来ていませんでした。さらに借入金が1万8533貫ほどありそのうち3割が年利が最大14%から17.5%の江戸での借金です(P118)。中津藩自身、収入に釣り合わない「不相当暮方」をしていてるのは自覚し(P113)支出削減を継続しつつも、利払いに充てる原資を捻り出しにくく、金利の高い江戸の借財を減らしつつ中津藩は天保12年に取引のある加島屋に「御助情」つまり追加融資を含む支援と協力を依頼する文書を差し出し、加えて加島屋視点からの改革の助言や立案を依頼しています(P115)。

ところで加島屋は津和野藩とも取引があり津和野藩に対して紙や蠟燭の専売権と引き換えに債務整理と新規融資を実行していて(P106)、しかしながら中津藩は津和野藩のように加島屋に専売権を与えるような物品を産していたわけでもなく、それでもなお加島屋は中津藩に追加融資を実施した模様です(P123)。その代わりに中津藩は決算書に相当する書類や補助帳簿を含め詳細な書面を提出していた模様で(P129)、おそらく加島屋からあらたに借りた年利8.4%の資金などを利用してその後8年の間に高利の江戸での借入金を3分の1にに減らし壊滅的破綻は回避でき、金利支払いの重圧から若干解放されています。ただ残念ながら継続的に単年度収支を均衡させることが出来たかというと天候不順を含む外的要因もあってムリではあったようで(P130)、中津藩の苦闘は幕末まで続くことになります。

本書では加島屋が藩の財政資料にアクセスし信用審査を行って融資と監視および財政規律化を行う戦略をとっていたのではないか(P133)と指摘しているのですが、私は経済史に疎いので正直「そんなことまでしていたのか」という驚きのほうが大きく、藩の財政に深く介入した加島屋の記録を読んでいると、俗に士農工商といいますがその序列が幻想に近いものであったのではないか感が強くなりました。

さて、本書のいちばん大事なところはこの中津藩との取引ではなく加島屋廣岡家がいかにして幕末や明治維新を乗り切ったかなのですが、(たしかに朝ドラになるくらい波乱万丈で)それは本書をご覧いただくとして。ひとつだけ書いておくと豊後との関係は廣岡家が深く関与した銀行が大分の銀行に介入するなど昭和まで続きます。

以下、個人的なことを書くのをお許しください。個人的に株を持ってる小さな会社のひとつが借入金はゼロで金融機関のチェックが利かずかつ近隣の身内で固めていて、しかし去年あたりから先行きがかなり怪しくなってきています(今年の株主総会でかなり揉めた)。本書では中津藩の財政が一時的金策に走りその場しのぎであったことにも触れられていて(P126)、中津の人間ではない大坂の加島屋の介入で改善の兆しをみせるわけですが、それは身内ではない第三者の目の必要性を暗に示してるような気がしてなりません。なんだろ、やはり組織って身内ではない第三者がいたほうがよいのかなあ、と。

歴史や金融の専門家ではないのでこのへんで。