小田急の記憶

「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」ってのが豊饒の海に出てきます。身に覚えのある・身体に刺さるけっこう強烈な言葉です。手続きが終わった通知を受けて書類を片しているとき、目は書類に落としてたはずなんすけどふとした拍子に脳内は悪戦苦闘していた頃の映像でいっぱい、ってな経験もあります。ただし数字であるとか詳細なことは忘れています。
民事訴訟では実際だいぶ経ってから記憶をたどって残したメモより事象が起きたことのあとのすぐのメモのほうが証拠能力は高かったりします。たぶん、記憶はあんまりあてにならなくて、時間の経過とともに正確さは欠けてゆく、という習性が一部の日本人にはあることがあるということなのだと思うのですが、これがわたしのような一部の日本人だけなのかそうではないのかちょっと気になるのですがそれはともかく。
新宿と藤沢方面を結ぶ小田急というのがあります。祖父や両親が眠ってる墓地は途中まで小田急に乗ったほうが速く着くので小田急は小学生の頃から記憶にあります。

小学生の頃から見慣れていた現時点でいちばん古いロマンスカーLSE)が10日に引退するので特集本が出ていて帰りがけに寄った本屋の店先でそれを見つけ、そういえば小学生の頃にはじめて乗せてもらえたんだよな、そのとき車内で森永のアイスクリームを食べたよな、と表紙を眺めながらほんの数秒脳内に過去の記憶の映像が湧き出てきたのですが、でもそれが夏であったような気もするし冬であったような気もするし・昼であったような気もするし夜であったような気もするし、幻の眼鏡の作用があることを改めて確認しながら詳細は覚えてなくておのれの記憶って、やはりどこかあてにならないな、と思っちまったり。
おのれの記憶は棚上げしておくとして、小さいころの特別の記憶が詰まったものが世の中から消えてしまうのはちょっとだけ寂しいものがあります。歳を重ねるとそういう経験が増えてゆくのかもですが。