「いつやるの?いまでしょ」というのがけっこうテレビで流れておそらくここでも何回かそのことばのひっかかりを書いた記憶があります。あらゆるシチュエーションで使えることが人気の秘密でもあります。でもこのあらゆるシチュエーションで使えるということがひっかかるのです。肝心かなめなところは「誰が」「なにを」が抜けてるところです。それを述べないで空気を読むことを要求するところが秀逸でなおかつ気持ち悪いのです。ほんとは「勉強しない人」とか「動かない人」とか「迷ってる人」が、「勉強する」・「動く」・「決める」べきである、ということなのかもしれません。しかし正解はどこにも提示されません。また正解は提示されないんだけど、最初に「やるのはいま」結論があって、その結論が前後を考慮しない断定によるもので、その断定があって、なぜいまなのかの説明がないのが、なんだかすごく気になるのです。
で、この言葉を最初きいたときにいくつか他所とすりあわせをしなければならないところがありました。片方が「これでいいですか」というのを精査しながら別の一方は「もうちょっとこうしたい」というねじ込みをしてきます。ああっそんなにいっぺんにせめられたらおれ、が…がまんできないなどどは云えませんから耐えなかがらじゃねえ「あっ…そこもうちょっと…」とか「すごくいい…です」とかいいながら(セリフに若干の誇張あり)その場を切り抜けたのですが、人はそれほど器用じゃないのではないかなあ、とは思いますっててめえの話をするとおのれがろくなやつではないし愚図にみえてきちまうのでろくなことにならないのだけど、やらなくちゃならないことがあったとして、それよりも他にやらなければならないことがあったり・熟考しなくちゃなことがあっても、「いつやるの?いまでしょ」の言葉は、不器用な人間にはちょっとした問答無用の脅迫みたいなところ・その通りにできない人間を非難するようなところがあります。おそらく林先生は毛頭そんなこと考えてないだろうし予備校生に単純にポジティブであること・困難に立ち向かうチャレンジャーを要求してるのだろうなあ、と想像つくのですが。
年がら年中困難に立ち向かうチャレンジャーである・ポジティブである必要はぜんぜんないはずなんだけど、ポジティブという言葉を知ってると、腹減ってるときとか寒い朝とか、そうなれないとき変におのれをせめちまうところがあります。寒いとろくなこと考えないせいかも。