書写

春はあけぼの、というのを義務教育のときに暗記させられた記憶があります。秋は夕暮れ、っていうあれです。なんでこんなもの暗記しなくちゃいけないんだろうと思いつつ、書写してました。偶然、フジテレビで林先生が学生相手に基本として「書写でしょ!」といってて、枕草子はいつかは覚えてないけどそういや書写したよなー、ってのを思い出しました。判んなかったら辞書をひけ、とも言ってたのですが、なんで春はあけぼのがいいのか、という答えは辞書には載っていません。ですから考えるしかないのですが、「春はあけぼの、ようようしろくなりゆくやまぎわ」っていったって中央線沿いのこどもの場合「やまぎわ」というと最初に思い浮かぶのは電車から見える秋葉原電器屋ヤマギワ」です。蛍光灯が点けばそら白くなるよなあ、というのはこどもごころに納得がいくのですがまあそんなことはないだろうと思いつつ、東京は日の出の方向に山は(上野の山と待乳山の聖天さんくらいしか)ないので、やまぎわが白くなる、というのは想像の世界でしかありませんでした。日の出前にやまぎわが白くなるのかどうか、観たことがないのでそれが良いといわれてもぴんときません。正直判らないものでも相手はその感覚が良い!と云いきってるのですから、内心ほんとかよ、で終わりです。ほんとかよと思いつつ、そういうものなのかも、と書写の結果、知識として呑みこんでました。テストに出たら点取れるんだしそういうモノサシがあったんだな、みたいな。
というかなにが良いか・面白いか、というのは無精ひげが乳首あたりにこすれるのがたまらなく良い・ぷにぷに状態から硬直するまでの動きは面白くてつい目が行ってしまう、というのとおなじくらい個人的・感覚的なものだから、こたえが無いかもしれません。それでも枕草子が今でも残ってるのはそれが教養とか古典だからではなく、一興あると思わせるその感覚・考察に同意や反発をしちまう人が多いからでしょう。あれこれ考えて、同じ土俵にのせられてるのです。つかここらへん、苦手と感じつつも読んでしまう・あれこれ考えてしまう、村上春樹さんの創作にもいえるのですが。テストとか関係なくなると、誰かのいってることをそのまま鵜呑みにするのではなく、そこにかいてあることが腑に落ちるのか・納得できるのか、自分で判断しながら読むおもしろさってのがでてきます。もしかしたら述べてることに同意や反発、もしくはそれにまつわる考察を誘引するその試みも文学なんじゃないの、と思えます。文学ってなんなのかは専門外だからわかりませんから違うかもしれませんが。
話を元に戻すと、林先生は基本として書写をすすめ、集中力がつく、とおっしゃってたのですが、集中力以外は書写の効力は判らないでもなかったりします。書けば覚えますし、国語以外でも書いて覚えたことがあるのですが、私はその基本をどこかでおそろかにしたのか・いやいやしぶしぶやってたつけか、本を読んでも思考が糸の切れた風船のようになっちまうことがあるので、ちょっと欠いてしまってる気が。知ってたらもうちょっとなんとかなってたかもしれませんが。