テストにまつわる記憶

数学のように解法を身につけるかどうかを問うテストってのはまだいいのですが、10代の頃悩んだのは解法がないそこになにが書いてあるかわからないことがあった古典のようなテストです。何回か書いてますが「春はあけぼのようようしろくなりゆくやまぎわ」ってありますけど・良いとするものに関して状況描写を書いてはいるのだけどあそこには「春はあけぼのようようしろくなりゆくやまぎわ」がなぜ良いと思うか、というのは書いてありません。「ともかくこの人は朝はやくの山のきわが良い」といってることは理解しつつも正直、東側に山なんてない平坦な武蔵野在住の人間にはぴんとこない話で・オレンジの中央線から眺めることができた秋葉原ヤマギワくらいしかしらないのでなぜ良いのかが理解できず、よくわからない話で断定されても困るよなあ・「なぜ良いと思うのか述べなさい」ってのがテストにでたらアウトだなあ、とびくびくしていました。幸いにしてテストには出ていませんでした。でもって悔しいのは幾何や確率なんてかなり忘れてるのですが、この疑問はしっかり覚えてるのです。試験にでなかったことによって疑問は解決されず、(大人になったいまとなっては正解かどうかは別として花鳥風月に対するアンチテーゼなのかなと推測はできるものの)「春はあけぼの」がどうしてよいと思うのか理解していません。理解してないのでいまでも「〇〇がよい」とだけ書いてある文章にぶち当たると脳内ですだれの向こうにいる清少納言がでてきて、脳みそが痺れます。もしかしたら清少納言のせいで・枕草子を手本とすることで、日本人は良いと思う対象をるる述べることはできても、なぜ良いかということを述べることは不得意になってしまったのではないかとか妄想するくらいなのですがって話がずれた。
はてな今週のお題が「テスト」です。
学生の頃は上記のようにわからない問題が出てきたらどうしようという不安があったので鬼太郎の「しけんもなんにもない!」というのは憧れでした。しかし実社会に出てみると出題範囲が特定されててそこから問いが何か出てくる・知識を問うというのは幸せなほうで、職務によっては・場合によっては、どこが間違ってるかなんてのはわからなくておのれが探さなくちゃいけない・問題点を見つけたあとも解はいくつもあるけど最適解をさがしながら説明して協力と同意を得なくちゃいけない、それができなかったらぜんぜん進まないっていう、おのれの人格を含めた総力を試されるテストみたいなところがたまにあります。「しけんもなんにもない!」世界が予想していた憧れの世界ではなかったものの、じゃあテストのある学生時代に戻りたいか、っていったら不思議とそんなことはないですが。解は一つしかなさそうなのにそれにたどり着けてなさそうなときの不安と、範囲が限定されてるからこそ弱みを自覚してて「わからないところがでたらヤだな」という不安は、学生時代の頃のテストはわたしにとってすごく重かったです。
その重さがなせる業なのか、とてもくだらないことなのですが、テストで記述式の設問があって、それについて唸りながら書いあげてるときに横から風が吹いて文字がさーっと机から零れ落ちてゆきそこで目が覚め、夢であったことにほっとしたことが学生時代にあって今でも忘れられなかったり、
って書いてて気がついたのですがテストにまつわる記憶は、秀才でも天才でもなかったのゆえのちょっと悲しい青春の一ページであったりします。