石原都知事の自伝を前に紹介したのですが政治的思想はあまり好きではありません。でも著書を読んでてすげーと思ったことが幾つかあります。
小選挙区比例代表並立制についての議論のとき衆院で反対派の急先鋒だったのですが、それをいうと「守旧派」と名づけられ攻撃された。で、あるとき反対派の会合の後に待ち伏せしていたらしい民放の女性アナウンサーが
守旧派の会合だったのですね?」
と問うたあとに普通の政治家なら無言で無視でもするのでしょうが、
「俺は男だぜ、子宮なんてあるわけないだろ」
って切り返した場面がありました。一同大爆笑し、張り詰めたその場の空気が変わったものの、放映されなかったそうです。でもこのセンスって、すげーなーと思うのです。
何かをみるときに対立する名前を付けるってのはよくあります。ふたつのものの優劣つけがたいときに対立する名前にすると判り易いってのがあります。名前の付け方を一歩間違うと、おかしな方向へいくことがあります。当時、守旧派って名前がつくとまったく理に叶ってない主張をしてたわけではない議員の人たちは叩かれていました。守旧派と改革派なんていう名づけかたをして中身を問わずに対比させるものを置き、改革するのが善で、そうでないのが悪、っていう空気の印象操作の結果でしょう。政治ってそんなもんだって言われればそれまでですが「改革≒正」「守旧≒正でない」みたいな空気でものごとが進んでいたのはちょっと正直怖いな、と思いました。そんななかでも貼られたレッテルを笑い飛ばすようなその姿勢って、正直好感もてたんすけど。そこまでできたのはたぶん文学者ゆえのシニカルさを持ち合わせてたからじゃないか、なんておもうのですが。


まったく違うけどレッテル貼りされてるものが、伝統という言葉です。現代とか最新のモノにたいして対立するもののように語られるのが伝統だったりします。よく伝統文化、伝統芸能なんて言い方するのですが、「よくわからないもの」としてなんだか現代のものと区別されて「保存されなきゃいけないもの」っていう捉えられ方をしてることにちょっと危惧を抱いているのですが、そんなことないんじゃないのかな、っておもったりはします。ある程度の教養は確かに必要な場合ってあるんすけど、伝統芸能は現代の芸術との間で別に区別するべきものではないし、むしろ「ようし、あっちがああでたならこっちはこうだ」横並びでのライバル意識みたいなものを持つ人がけっこういます。中村勘三郎丈がやってる平成中村座春風亭小朝師匠や笑福亭鶴瓶師匠、立川志の輔師匠らの大銀座落語祭なんかは「保存されるべき伝統芸能」というレッテルなんていらないよ、っていう答えでしょう。


伝統芸能の世界を語る人の中で不思議な言葉として「芸の肥やし」ってのがあって、浮名や色恋沙汰の話が「よくあること」のようにでてきたりするのですが、そんなものは別に伝統芸能とは関係ないことです。恋多きことや浮名を流すことが伝統芸能の特殊事情とか考えてるのか「あれは芸の肥やし」とかいって納得してる人が不思議でしょうがないんすけど。やはり表面的な判断によるレッテル貼りで深くは考えてないのではないか、と思うし、恋多きことや異性と寝ることがどこがどういうふうに「芸の肥やし」になるのか、私は本気で判らなかったりします。恋多きことや「女好き」というレッテル貼りのたぶんかたちを変えた罵倒なんでしょう。
同じ浮名を流しながら広島出身の女性アナウンサーと比較してなんで成田屋の坊ちゃんが女性アナウンサーほど徹底的に叩かれないか、って云ったら、成田屋の坊ちゃんが伝統芸能の世界に居るからじゃないのです。両方とも恋多き人種であるものの(そもそも恋多きことでなんで叩かれなあかんの?)なんて思うのですが、成田屋の坊ちゃんとて多くの恋をして女性と寝てる限りは(ほんとに寝てるのかどうかは知りませんけど)単なるお年頃の「女好き」です。お年頃の女性アナウンサの「男好き」という評価とぜんぜんかわりません。でも、その人が持ってるもの、この場合成田屋の坊ちゃんの「才能」(父である團十郎丈が病床にあるなか、周囲の協力を得ながらあの若さで恙なく自らの襲名披露をこなした力量はあるでしょう)でもって肯定的に評価される限りは高く評価され認められるところがあるので、叩きにくいのです。で、叩きにくいからかたちを変えて罵倒する。それが芸事にとって色恋は「芸の肥やし」だからしょうがない(ほんとは女好きな男なんすよあいつは)、といういいかたなのかな、と。


この国の風潮で怖いと思うのは、多数からみて理解しにくいことを区別してレッテルを貼ったり、あまり考えずに区別してレッテルを貼ったり、ってことをすることです。さらにレッテルを貼った上で叩いたり、過保護になったり、異常扱いします。守旧、改革っていう云い方をして改革じゃなければ悪っていう構図を作って叩くし、何百年の歴史もあるものは保存しなきゃなんて考える人も居る。
一番わからないのは、恋多きことや男好き女好きも異常扱いで、叩こうとすることです。ホテルに野球選手と入ったって云う事実だけでキャスターを降ろされるし、芸の肥やしだとか言われて罵倒されながら赦免はされるけどいろいろ陰口は叩かれるってのが、理解できないのです。男好きとか女好きなんてそんな悪いことなんかな、なんて思えちまうんすけど。色恋に対して「燃える闘魂」を隠さない場合、やはり異常なんでしょうか。私なんかは広島出身の女性アナウンサーや成田屋の坊ちゃんが色恋ごとへの「燃える闘魂」を隠さないことにどこか清清しさを覚えるんすけど。もっとも批判するほうは公然と色恋ごとを表面化させるのはおかしい、ってことなのでしょうけど。
最近こういうゴシップに関することなんかでうっすら気がついたのは批判なり擁護なりするほうも「恋」や「性」というものに対してのその人の認識や感情を浮かび上がらせやすいな、ってことでした。
そしてレッテル貼りも、レッテルを貼るほうやそれに同意したり引用するほうも、その見識や認識の深さ浅さがほんと出易いな、なんて思います。