大人になれないことに気付くとき

少し狂ったことを書きます(いつも少し狂ってますが)。

江戸っ子は五月の鯉の吹き流し、という悪口があります。口はでかいし悪いが腹の中は空洞である、というニュアンスで用いられます。良い意味では上品ではないけどさっぱりしていて、悪い意味ではあと先考えず口にしてなおかつ流されやすくて確固たるものがあんまりないです。いわゆる江戸っ子の気質が無いわけではない「坊ちゃん」は学校に赴任した日に「生徒の模範になれ」とか「学問以外に個人の徳化を及ぼさねば教育者になれない」などと云われて「あなたの仰るとおりにゃ出来ません、辞表は返します」という行動をとろうとします。教師として赴任しながら教育的言説が響かないのは教師として確固たるものがあまり無いからです。

確固たるものがあまりないと書きましたが、まったくないわけではありません。「坊ちゃん」の中では「名折れ」という語句が複数回出てきます。名折れというのは名誉とか名声とかそういうものに瑕がつく、という意味ですが、新聞に辟易して休んだと思われたら名折れなので「めし食っていの一番に出頭」するように、名折れだけは避けてます。でもなんでなぜ名折れを避けるのか。弱虫と囃し立てられたから跳ぶしかない、という結論に結びつくように、あいつはほんとは度胸が無いのだ・強くないのだ、と思われるのはイヤという理屈抜きの強がりが彼の根本思想のひとつだからのはずです。すべての江戸っ子が理屈抜きの強がりとは言い切れませんが、理屈抜きの強がりは江戸っ子の特徴のひとつであったりします。もっとも坊ちゃんの行動をすべてを江戸っ子に帰結できるかと云ったらそんなことはできませんが。

徳化を及ぼさねば教育者になれぬといわれて辞表を返そうとした坊ちゃんですが、松山にいる間に義侠心のようなものが出てきます。物語としての坊ちゃんには赤シャツという出世間違いなしの事なかれ主義の策士でもあるエリートが出てきますが、美人のマドンナを手に入れて、うらなり君を合法的に追っ払い、お金を使った女遊びをするのだけど証拠が残らぬように時間をずらして入る用心深さを持っている決定的な違法さはないけど道義的には「ヤな奴」です。坊ちゃんはご存知のように結果的に天誅を加え即刻辞職して東京に戻ります。

坊ちゃんはなぜいまでも読まれ続けてるのかというのはわたしの疑問のひとつなのですがそれはさておき、坊ちゃんは根っこには「ヤな奴は成敗されるべきである」という路線があって確固たるものは無いけど理屈抜きに動く義侠心のある強がりな江戸っ子が行った忠臣蔵だと思っていて、私的成敗の禁止というのは百も承知で、私的成敗がある坊ちゃんという作品について大人として・法学部卒として云い難いことなのですが惹かれるものがあります。状況にはなにも変化がないというのはそのとおりです。戸籍上は台東区中央区のハーフなので血のせいにしたいのですが血のせいにするわけにもいかないので言い換えると、(義侠心や道義が廃れつつあるなかで義侠心や道義を真正面から持つ)坊ちゃんを読んでいてシビれてしまうのは40過ぎても完全に大人になり切れぬところがあるせいかもしれません。坊ちゃんについて考えるとおのれがいつか完全に大人になる日が来るのかなあということを考えます。五月の鯉の吹き流しではないですけれど、読んでいいなあと影響されちまうくらい確固たるものは無いので、ムリかもしれないような気がするのですが。