わかる人だけがわかってくれたらいいのにな、って高校生の頃すこし考えて、詩を書いてみようかなんて一念発起したものの詩心なんて皆無ですから見事に挫折しました。けど「わかる人だけがわかってくれたらいい」っていうスタンスはどこか魅力的に思えました。魅力的ではあるものの、それは好ましいことじゃないし通用しないのではないか、という疑念を抱きはじめたのは大学生のころです。

予習を完璧にしたつもりで自分でも準備はばっちしどんとこいとある判例を分析して発表する授業に臨んだものの、結果的にそのことに関する参加者の理解がまだら模様でさらに勉強をもうちょっと深くする必要がありますねーなんていう講評を貰った経験があって、ものごとを理解してさらに他人に理解してもらうってことのしんどさってのを思い知ったのですけど、そのときの経験から「わかる人だけがわかってくれたらいい」というのはなんのことはない、理解させようとするほうの努力不足を棚に上げたことなんじゃ?という疑念がでてきました。何処がいけなかったのか内省してくうちに外に原因を求めようとしてたんですけど、理解した人もいたのでそれはあまり正しくない(ただ例外もあって外に原因を探して正解のときもあります。他人から自分の期待する意見が欲しいだけではなからそれ以外を理解するつもりのない人もいるんすよね)。およそ誰にでもわかるようにプレゼンできなかったほうが悪いのではないか、と思うようになった。
で、どうやって他人に納得してもらうかってことを考えるとき、基本的姿勢として他人のせいにするのはどこか妥当じゃないしやはり禁句なのです。「わかる人だけがわかってくれたらいい」というのは。「わかる人だけがわかってくれたらいい」ということばの裏には「わからないのは頭が悪いから」という侮蔑があるような気がしてならず、また努力不足を回避する隠れ蓑にしやすいけどそれは正しくないことなんだろな、とおもうのです。


もちろん特定のレベルの人にターゲットを絞ってのときは、そりゃ「わかる人(≒特定の人)だけがわかってくれたらいい」というのはアプローチの仕方として妥当なんすけども。


「説明」は簡単なんすよ。なんとなく相手も判ったような顔をする。でも「理解してもらう」って難しいなー、とおもうのです。
個人的には「わかる人だけがわかってくれたらいい」というスタンスをとったりはしてないつもりなんすけど、なんだか意思がうまく伝達してないときにはやはり結果的には「わかる人だけわかってくれればいい」というスタンスをとったのと同じことで努力不足なんだろうなー、と思えます。
社会人になってもう10年は経つんですけど、たまに相手に理解してもらうための自分の表現スキルの拙さに愕然とするんすけども。