権利の行使及び義務の履行は信義に従い誠実に行わなければならないっていう信義誠実原則ってのが民法の条文の最初のほうにあるんすけど、この誠実ってのはなんなんだろうってのが、イマイチわかっていません。信義ってのは約束を守るとか嘘をつかないとかそういうことなんだろなとは思うのです。で、たぶん誠実さとは、相手の気持ちをすこし考えるってことなんかな、とは思う。誠実さに欠ける人とは自分のことしか考えていない人なんすよ。他人と協調するつもりがないし、相手が自分を理解してくれるだろうあわせてくれるだろう、っていう人なのかな、と。


期限直前になっていきなり連絡をよこして、こういう事情で変更してほしい、っていってこられても困る場合ってのがあるのです。で、改めて「困るんですが」というと、相手側は「ちゃんと云ったじゃないですか」で終わりなんすよね。間に合わない事実を言えば相手が理解してくれると思ってる。相手が自分に合わせてくれると思ってる。何様のつもりかわからないけどすげーよな、と何度か思ったことがあります。こういうとき想像力を働かせて対応をとらねばならぬ必要を言外に期待してるんすよ。で、云うほうは云うだけで相手は判ってくれる、と信じてるフシがあるのです。云わないけどわかってね、っていうやつっすね。で、こちらがそのとうりにならないと相手はこちら以上に判ってくれないことに腹を立てたり、ストレスを感じてたりする。似たような事例で理由付けのように「私は○○だから」とかいうような人っているじゃないっすか。そういうとき「だから私を寛容に扱ってね」ってとかの相手にある反応を求めてるんだと思うのですけど、私がたまに理解不能に陥ったり「空気が読めない」のは、その相手の発する「わかってね」が理解できないからなんだと思う。○○だとなんでこっちが相手に寛容じゃなきゃいけないのかそれを受容しなければならないのか判らないときがあるのです。で、やはりこちらがそのとうりにならないと相手は判ってくれないことに腹を立てたり、ストレスを感じてたりする。
意図や根拠をすこしは明確にしてっていうことをある程度習慣づけてきたほうからすると、意図や根拠をあまり明確にしないで事実とか結論だけいえば理解してもらえるのがあたりまえと思ってるのってすげーよな、と思うし、それでその人のまわりの世界が廻ってるとしたらそれはすごいな、と思うのですけど。

この手法どっかで見たな、とおもったら小泉元首相のやり方です。靖国参拝だったかなんだったか裁判所で争った違憲性の問題を(およそ宗教的な)「心の問題です」という一言で済まし、そのこころの問題といいながらも自らの宗教観を多くは語らず、さらに反発する勢力や諸外国に対しては判って貰えると思う、という云いかたをしてました。私には趣旨がよくわからなかったのですが。


実は私が思ってるより世の中って善意に満ちていて、相手に配慮する社会で、たまたま私が善意が少ないだけの性格だから空気が読めなくてさらに相手の思いどうりに動かなく、相手を幻滅させてるところがあるのかも、という自覚がうっすらあります。