危機意識とか、所属する組織の事情なりを他人に説明するとき、同じ知識の基盤がないとなかなか話が通じなかったりします。得意分野が違えば全然話が通じない。ある側面でオッケイなものでもいざ別の側面のことを考えるとそのまんまではあきまへん、とか、そういうことがあったりします。かといって解決しなきゃならないものをそのままにするわけにはいかないのですり合わせをしなきゃならないことがあるとき、「おれ、そういうのくわしくないから」って逃げられるんだけど逃げられると困るから、逐一説明するんだけど、三分ぐらいアウトラインを拙い知識で説明してやっとわかりかけてもらえる、なんてことがあったりします。やっとそこで危機のいちぶを理解してもらえたり、とかあるわけです。
自分の言ってることは他人には理解してもらえないかもしれない、っていうのを常に意識してるんだけど、それは相手に伝えるときに、相手にわかるようにこちらが準備しないと、伝わんないよなあ、なんてことをここ1年くらいで改めて認識させられました。そんなことを考えながら、教養ってなんだろか、っていうと、ひとつはことばをほかにいいかえる・他人にわかるように説明するノウハウのことなんじゃないか、って思ってて、他人に説明できる程度にそれを理解してないとまずいわけっす。他人にわかるようにつねに説明できてない私は、あんまり教養がないなー・勉強不足だなー、とか感じることが多いっす。仕事に関することは周辺分野を必死に勉強してるんすけど、それでも理解できてるかどうか怪しい部分があったりする(30半ばを越えてて悲しいかぎりですが)。仕事以外ならもうほんとわかんないことだらけなんすが、いったん勉強不足を意識しだすと周囲は泥沼に見えてきてこれたぶん死ぬまでこの不安はぬぐえないのかな、なんて思ったりするんすがそれは兎も角。


最近、名古屋で名鉄特急のミュージックホーン(くるぞくるぞはやいぞー)というやつを耳にして、名古屋赴任時にそれをよく耳にしてたせいか不意に見知らぬ土地で最初は不安を抱え七転八倒したことを懐かしさと同時に思い出しちまって涙腺が緩くなりかけました。不安とか七転八倒の記憶というのはなかなか消えないものかもしれません。でもいま抱えてる不安とかしんどい七転八倒も生きてたら、懐かしく回想することができるのかもしれないっす。それまでもうちょっと頑張ろうかな、などといつもは不真面目なのに真面目にその時は考えちまったんすが。
七転八倒というかそれほど実際問題としては転んでないのですが、個人的には正直しんどい一年でした。不安を含め自分の身の回りの出来事とか暗くなるから書かないほうがいいのかなと思いつつ、書かないのはへんだ・どこかうそになる、と思って書いちまってるんすが、春先以降、書くってなんだろ、なんてことも考えててまとまらず・判らずじまいのままきちまってます。そういうあいまいな書き手を見捨てずに、まずはここまで読んでいただいた皆様に感謝いたします。


ありがとうございました。