好き嫌いっていうのを意思表示することはほんとはみっともないことっていうことを子供のころ叩き込まれました。小学生の頃友達の家に泊まりに行ってあまり好きでない納豆や生卵が出たときは泣きそうになりながらも全部たいらげたのですけど、大人になるにつれぜんぜんそういう決まりに世の中がなってないことに、なんだか愕然とした覚えがあります。大学生のときにこれ食べられないといって目の前の食事を残されたり平然と料理がやってきてから○○が嫌いって公言する人がいたとき、ああそうかなんだ自分が嫌なものって世の中は積極的に云っていいのか、っていうシステムにきづかされたんですけども。けど、どこかいまでも嫌いなものを挙げる行為っていうのがものすごくみっともないことをしてるという意識が未だ食べ物に限らずあります。このブログでもたまにやっちまってます。○○が苦手って。そのみっともないことは匿名だからできるんですけど。
嫌いなものの意思表示っていうのは、まだかわいいかもしれません。実は感情吐露っていうのはみっともないどころか下品なこと、っていうふうに思っていたのです。感情剥き出しっていうほうが正確でしょうか。ものごとが巧くいかなかったとかで我慢できなくって他人を攻撃したり嫌なものを「嫌」って云ったりするのは、それはいわゆる「自分に素直」なんでしょうけど、感情ってのを排泄物に置き換えるとわかり易いかもですが、ああ排泄物も我慢できないのか、っていうふうにとられるのがいやで恥ずかしいことだとおもっててなるべく避けてるのですが、それがどこがいけないのって云われればそれまでです。けど、普通の人は制御できるんすよね。
たまに、普通じゃない人宣言をしてストレスでやられる前に排泄物をだしたほうが身のためなんかな、と思うのですが、それが許されるのは子供だけだと思うので、30過ぎの社会人としてはなかなか踏み切れません。
つか、人間関係のことばかり書いてて、なんか少し病んでるようにもみえるかもですが、病んではいないと思います。たぶん。