自分は天才ではないのだな、と

私は以前絵を描いていましたが自分で納得するようにうまく描けたことなどあまりありませんでした。たぶん表現がうまくいかないことなど当たり前なことだと思っています。推測するに文字だけの世界はさらに真意が伝わりにくいでしょう。であるならなおのこと言葉に対しての吟味が本来的に必要になってくるのではないかとおもいます。絵でもなくとも意図が伝わらずうまく描けなかったとうなだれることもできますが、しかしなんのことはない、どんなに意図しなかったと抗弁してもその表現物やそれにまつわる誤解等は結局鏡に映った自分に過ぎないのではないか?と思います(どうでもいいですがこの時納得できない人がネットでもリアルでもこんなの私じゃない!っていう人が自分探しって言い出すと思います)。で、言葉で伝えようとすると言葉を吟味しても適当なのが見当たらず自分の表現力のなさにほんとに苦労して呆然とするのですが、それが続くとやはり自分は天才ではないのだな、と思わされることが多かったりします。


よい音楽会にぶちあたったあととか(音楽会に限らずよい録音のCDでもいいしよい小説でもいいしともかく良いものにぶちあったたあとは)そういう経験の後はモヤモヤした気持ちを味わうことがたまにあります。確かによい経験をしたしそのことを反芻したくなるしその経験を誰かに言いたいのだけれど必ずしもうまく言い表せないのです。
音楽の場合はあのパッセージでのトランペットが暗くて、けどふくよかで美しかった!とか帰りに友人とあーでもないこーでもないと話しながら瑣末的なことを言えたりするのですがそれはほんとあくまでも目に見えることをなぞったに過ぎないし表層的というか瑣末的なことに過ぎないってわかってて、けどその話すこと自体は楽しいし捉え方の違った相手の意見を聞くのも楽しいし(それによって自分の意見が新たに出てきたり変わったりすることもあるんですが)ずるずる過ごしてしまうのですが、そんなことばかりしゃべってるとなんだか大事な部分をきちんと言及できてないことがおおくて、聴いた後は至福なんだけど歯がゆい思いで一杯のことが多かったりします。
例えば炎が立つような演奏って書いてもそれは表層的な目に見える部分は言及しただけで、どこがどうして「すごい」と思ったのか「興味深い」とか「面白い」と感じたのか、大切なのはそこなのですが「どうして」っていうのがなかなかいいにくい。また心中に、名づけられぬ何かがあることは判るんだけど、それがなんなのかはっきりは掴めていないのもがあって、掴めていないから言及できないのでしょう。頭の中はいろいろ渦巻いてるのですがなんだかほんとに筆舌に尽くしがたい。そういうときほんと自分が不勉強で愚かだなあ、と思わされます。


音楽ではないけど、あるところのブログ記事で実は個人的にコメントしたい衝動はあるのだけど、現在、表層的な言葉しか思い浮かばずいろいろ渦巻いてる自分の考えてることを果たしてどうやってそれを表現して伝えるべきなのか判らずちょっと途方に暮れています。はっきりさせないで、ええいままよ、と書いても良いのかもだけど、果たしてそれが適切なんだろうかとか、考えちまうのです。その人がその文章を書くときに、どういう方向へ向かってどれくらい正確に届くかまで投球をコントロールしてることが容易に想像できるとき、おざなりの返球じゃ、失礼だからです。かといってうんうん唸って何も返せないってのもほんとはしたくないんですが、実はそうなりそうですけど。


日頃から言葉に対して敏感になってないと、ほんといざというとき困るなー、とつくづく思います。どこか刹那主義なところを、恥じ入るのみです。



趣味に走ります。
巧く言葉にできないけどすげーなーと思った演奏↓
レナード・バーンスタイン指揮、オケはボストン交響楽団。タングルウッド音楽祭での演奏。チャイコフスキー交響曲第5番の第4楽章です。途中から入ってるように見えますが、前の楽章から間髪いれずに入るので、変ではありません。
アツい、炎のような演奏だとおもうんすけど、適当な言葉が思いつかない。


小澤征爾指揮、オケはベルリンフィルハーモニカー。たぶん1993年夏のヴァルトビューネでのロシアンナイトだと思います。ボロディン作曲オペラ「イーゴリ公」のなかの「だったん人の踊り」です。ほんとは合唱曲ですが合唱がないです。でもそのかわり楽器をのびやかにうたわせてます。ああ、楽器って人の声の代わりだったんだ、ということを再確認させてくれる曲です。思いっきりエネルギッシュでもあります。小澤さんはピークに向けてタメて解放するのが巧いなー、と思うんですけど。惜しむらくはこれ、途中で終わってるんですよね。残念。
やはりこれも、表層の言葉しか思い浮かばないし、適当な言葉が思いつかないです。