明るい終わりの存在(昨夜のEテレのMahlerの9番を視聴して)

昨日の夜、NHKEテレで、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮N響で、Mahlerの9番を流していました。それについて匿名を奇貨として、ほんとどうでもよい、だからなんなんだというきわめて個人的なことを書きます。

恥ずかしながら気が付くのが遅くて、冒頭の指揮者のインタビューをまともに聴いてはいません。が、最後の最後に「人生に別れを告げなければいけない時代に我々はいま居ます」という趣旨の言葉が流れ、そのあとに第一楽章がはじまっています。8番の最終楽章「告別」のモチーフの音「ミ・レー」を2度下げた「ファ♯・ミー」というところからはじまる第一楽章の第一主題もそうだったのですがどちらかといえばずっとテンポは遅めで、拍を比較的こまかくきざみ、ゆえに決して明るくはない陰鬱なところやそうでないところを丁寧に浮き上がらせていて、かえって陰鬱な部分が引き立った印象を持ちました。第三楽章まではテンポは遅めで、第四楽章は急かさずに、しかしそれほど遅くは振って居ない印象で、いくらか脱線すると高齢ゆえにか座って指揮をしていたせいもあってオルガン奏者が曲を弾いてるような趣がないわけではなかったです。

第四楽章の終わりは華やかではありませんが弦楽器が最弱音ながらも明るい終わり方をします。明暗をはっきり浮き立たせて時間をかけて演奏していたことの意図がそこでやっと理解できて唸らされています。最弱音でありつつも最後に明るく終わることで明暗の連続であっても「終わりは決して陰鬱なのではない、明るい世界に包まれたものである」という明確なメッセージになってると思われるのです。

話はいつものように横に素っ飛びます。

第一波の頃にNHKEテレの日曜美術館で『疫病をこえて 人は何を描いてきたか』という番組をやっていて日本と西洋の疫病に関する絵画を紹介していて、人が死が近くにあるという状況に直面したときにどう反応するかという点でかなり興味深いものでした。日本の場合は物語仕立ての絵巻物を紹介して「いつか終わりが来る」ことを印象付けていたのですが(そしてその作業はとても腑に落ちるものであったのですが)、欧州は悪魔が跋扈したり悪魔が人に囁く絵画などを紹介していました。かの地の人の模索は理解しつつもそれらが悪魔の仕業であったとして「だからなんなのか?」とはうっすら思っていました。根っこのところで理解してたかというと怪しいです。

9番は作曲者が(疫病ではないものの)自らの死を自覚しつつ書いています。今回の演奏のように「明るい世界に包まれるという終わり」が言葉での明示はないにせよその意識があるならば、仮に悪魔が居ようと、死が近くに有ろうと、いまのように視界のどこかに終わりを意識せねばならぬような「人生にわかれを告げなければいけない時代」であろうと、人が決して希望が持てないわけではないという発想はかなり腑に落ちるのです。残念ながらそれがキリスト教由来のものか否かまでは不勉強なのでわかりませんが、「明るい世界に包まれるという終わり」を聴覚で明確に認知して、以前みたものきいたものについて代入すると「そういうことか」と腑に落ちたものが今回いくつかありました。

なおマエストロの出自は欧州で、発言や解釈は疫病だけではなくおそらく戦争も意識してるとも思われます。ゆえにどこか重たいです。

本を読んだり音楽を聴いたり絵画を鑑賞したりして違う文化をいくらかは理解したつもりになっていたのですが、今回の経験はちっともそんなことなかったことに改めて気が付かされました。と、同時に断片にすぎぬものの理解がほんのすこし進んだ気がします。スコアも確認してないし、きわめて個人的なことでゆえにどうでもよくて、だからなんなんだ?そんなことも知らなかったの?といわれるとぐうの音も出ないのでこのへんで。ぐう。