Living with BEETHOVEN

年末にBSフジでベルリンフィルベートーヴェンの第九の演奏会を放映していました。その演奏会の放映の前に流れていたドキュメント映画が、コールユーブンゲンを手にソルフェージュを叩き込まれたものの、はずかしながら必ずしも解釈や音楽史に詳しくないものにとっては、とても参考になりました。映画そのものは音楽監督であるサー・サイモン・ラトルベルリンフィルの奏者がベルリンフィルでのベートーヴェンの全曲演奏に関して解説を加えてゆくものです。
たとえば交響曲1番の場合「筋トレしたハイドン」という副題がついています。ベートーヴェン先行者ハイドンに影響を受けているのですが、ラトルは1番の冒頭20秒の間に7つのサプライズがあり人々が期待していない響きでもって「平手打ちして」いて、ベートーヴェンの「(あなたより面白い曲ができるという)ハイドンへの挑戦状」という解釈をしています。終楽章においてもハイドンの影響があるのですがそこにあるのは筋トレした男性的なハイドンである、というとらえ方です。またサー・サイモン・ラトル自身はベートーヴェンが「美しく弾かれすぎる」という意識を持っているようで、第九の4楽章でもチェロに対して決してきれいな音が出るような弾き方を要求していないことを奏者が明らかにし、リハでもその通りになっています(わかりにくいかもなんすがFreude,schöner Götterfunkenと同じ旋律のメロディが4楽章にでてくるところでその指示をしている)。きれいな音ではない代わりに「遠くからの声」に聴こえるような指示で、とても細かいところなのですがううむ、と唸っちまったんすが。ちなみに第九についた副題が「ハイになった(モーツアルトの)魔笛」です。ちょっと刺激的です。ちょっと聴いてみたくなりませんか(ならないかも)。
全曲演奏とともに録音もしています。(既に多くの演奏があるのですが、それでも)録音するのは後代に残すための現時点での意見表明、という見解です。ベルリンフィルは(ルーマニア人であるチェリビダケが戦後再建しチェリビダケのあとの)オーストリア人のカラヤンが深い音色と調和と美を鍛え上げ、イタリア人であるアバドが明晰さを加え、英国人であるラトルがいま率いて深堀りしています。番組内ではスナップ写真にもたとえられています。(戦後は)「人々は美を体験したがっていた」という解説が番組内にあったものの、いまは必ずしもそうではないということのようです。いったい音楽における美ってなんなのか、という根源的な疑問もあるのですがそれはともかく。根っこに流れる「芸術というのは美しいもとは限らない」というのは個人的にわからないでもなかったりします。
10年くらい前に来日したときに(ベルリンフィルではなかったはずなんすが)サー・サイモン・ラトルの指揮でベートーヴェンの5番を演奏していました。で、あまりにも有名な三連音の(休符を含めてン)「タタタ」「タ」の部分をラトルはそれほど残さずにすっと回収していました。よく運命動機といわれてて、ドアのノックする音だとか諸説があるのですが彼は「若き日の雄叫びもしくは咆哮」という解釈でそうしたのです。わからなくもなくて、腑に落ちた記憶があります。良い意味でとんでもない人がベルリンの音楽監督になったなあという印象をその時は持ったのですが、そろそろ退任の時期なんすが、ベルリンフィルは共同作業者と共に幸福な時期を過ごしていたのだなあ、ということを番組を通して、再確認させられました。願わくば退任までの残された期間の間に、指揮棒の先に芸術の神様の恵みが降臨しますように。
残念なことに私はドイツ語をあまり解さないので字幕を通じて、という作業が必要で、年賀状を書きながら録画していたものを視聴していたのですがしばしば手を止めちまいあんまり効率は上がりませんでした。でもとても濃い時間を過ごせた気が。