目に見えないけど居そうなもの

目に見えないものだけど、なにかがいるのではないか、と思ったのは小学生の頃です。和音というか音楽の時間に声を合わせてハーモニーというのかそういうのを出すのがすごく快感で、なんだか不思議に思えたのです。音楽の世界にはなんだかすごいものがいるぞ、みたいな。音楽は大人になってからも「なんだかすごいものがいるぞ」と思わせられる経験をしてきて、オーケストラの演奏会なんかでも目の前で音楽が立ち上がるというかメロディがキレイとかそういう次元とは別の、「うわーなんかすげーことになってるぞ」的な経験を何度かしました。終演後、すごい体験をしたのではないか、なんてことを思いつつ、言葉にしようとしても巧くでてこないことが多かったりしました。たぶんきまぐれな音楽の神様みたいのがいて(小人さんでもいいのですが)たまに降臨するのではないか、なんて疑ってるのですけど。
目に見えないし数値化することも不可能だけど、たぶんあるんじゃないか、と思えるのが身体の相性というやつです。大きさ固さ長さとか身体固有の問題なのか感度の問題なのか、テクニックの問題なのか愛情の問題なのかよくわからぬものの、なんだかあるんじゃないか、と思えて仕方なかったりします。で、同じ相手でも常に同じじゃなくすごく印象に残るときやそうじゃないときってあると思うのですがそれを考えると、エロの神様ってのもいて(これも小人さんでもいいのですが)、気まぐれに降臨したりしなかったりするんじゃ、なんてことを考えたこともあります。



四国で経験したことなんすけど、同行二人って言葉があります。一人ではないっていう意味でもあるわけで、お大師さんと一緒、という意味です。歩きはじめたあたりでは「お大師さんと一緒」という言葉の意味が判ってなかったのですが、しばらくすると意味がわかりました。ほぼ普段着に近い状態で歩いてたにもかかわらずヤクルトとかコーラとかみかんだとかいろいろいただいたり道を教えてもらったり握手を求められたり、なんてことがあったんすけど、これがやはり目に見えないはずの「お大師さんと一緒に歩いてる」ということがなせる業でした。そういうふうに確実にみられてるのです。そうなってくるとお大師さんの影をなんとなくこちらも意識せざるを得ずお大師さんが居る以上、お行儀わるいこととかはもちろん、いろんな意味で悪いことはできません。そしてお大師さんと一緒ってことは、同時にいろんな質問もされます。煩悩は消えるのか?とか仏教的な質問から人間はなぜ惑うのか、とか、楽したがるのか、とか、隣地との境界争いの相談まで。それまで精一杯学んだことをフル動員してこたえてきたつもりなんすけど、その質問は見ず知らずの私に対してと、向こうからすればよく知っている見えないお大師さんに対しての質問だったはずです。ですから手を抜けませんでした。なんのことはない、私は四国でお大師さんの前に身を投げ出してるのと一緒だったわけっすけど、見られている・身を投げ出す、ということはひどく重いもののような気がしました。四国でも長崎でも高千穂でも考えていたのですが、信仰とか帰依ということは実は、目には見えないけど仏様とか神様に身を投げ出し、常にそばで見られてることなんではないのか、なんてことをずっと考えているのですが。


仏様や神様もそのものを見たことないから居るのかどうかわかりません。でも、居るんじゃないか、なんてかなりの確率で思ってます。
神仏に限らず、目に見えないけど居そうなものって、けっこう有りそうな気がします。



宮崎県庁前庭の中央の樹齢99年のフェニックスが大往生を遂げたってことをニュースで知りました。写真は先月のもの。この写真の真ん中のフェニックスです。大往生ってのがなんかすごい表現で、木を単なる木として扱わないことってあるんだなってことを改めて確認。つか、宮崎にとってフェニックスって宮崎を宮崎たらしめてるアイテムだからそういう扱いなのかもしれませんが。

霊的なものっていうものも実はよくわかりません。ただ、樹木とかにはいそうな気がしてならなかったりします。たぶん、子供時代から社会人になるまで育った街に雑木林があってそこで遊んでたせいかもしれません。
ほんとに樹木に霊とかがいるかどうか目にはみえないから判らぬものの、大往生を遂げたフェニックスに合掌。