口には出せない

不幸な話ってあったりします。大変な話でもいいんですけど。
たぶん誰もが、ああ可哀想だな、大変だな、と思えるような話ってたぶんあって私にも有ります。で、私は単に同情が嫌いなのと、文章がうまくないので下手な役者が花道で六方踏むような感じになっちまいかねず、それをしません。そもそもにっちもさっちもいかないときに不幸だと感じても靴屋小人さんが出てきて何かをしてくれるわけではないと小さい頃から思ってたし、そう考えたところである朝目が覚めて起きてみると虫になってもいないし天国に居たこともないから、神様や他人にそれを表明したところで好転するわけねえ、と思っていました。



ある日勤務先の用で先輩と一緒に大阪へ朝早くついてみるとそのままある事柄にかかりきりになってしまい後始末もやらねばならずほぼ一睡もしてない状況で徹夜となり、翌朝一番のひかりで東京に戻ってそのまま仕事して夕方入院してた親のところにちょっと顔を出してから黒服をもって池袋から出る夜行バスに乗って金沢へ行き葬式に出席、無理やりその日のうちに特急と新幹線で帰って翌日出勤、その日の退勤時に同僚や、夜、親の入院先に行ったら顔に疲労が出てたらしくお前ダイジョウブか?と心配されたけど、そんなことないよ、と笑ってごまかしたんですけど。自分でやらねばならぬことは誰かに云って何とかしてくれるわけではないことが多いから、他人には云えないし云わない。ほんと云ってどうなるものでもないんですよ、現実って。現実って自分の都合のいい様になんかならないと思うし。現実にあわせて自分が動くしかない。



にっちもさっちも行かないときに電話口で状況を説明してその対応なんかを言うと「○○ちゃん強いね」「大変なのに良く頑張れるね」とかいう人がいた。
え?何もしないでどうするの?と、のどまで出かかるのですけど、そこまではいわなかったですが。
たぶん私がひねくれてるのでしょう、同情という名の下に、「ああ私はそういう目に逢わなくってよかった」と言外に云ってる気がするようになってこの手の話をあまりしなくなったのですが。特に客観的に見ても不幸ぽい状況になったときだけ、親身になる姿勢を示す人ほど信用ならねえ、と思えるのです。たぶん、こういうひとはどこか、他人が不幸じゃないと安心できねーんだろうと思う。正直に言えば、私は自分をあまり不幸だとも可哀想だとも思ってないけどそんなことお構いなくて私が哀れで不幸であればあるほど、そうじゃないということで安心できるんでしょう。そう勝手に思うようになった。書いててほんとひねくれてる自分がイヤです。


で、後日談があって、○○ちゃんみたいに強くないから、という人がいるんすよ。こうなると、どう返して良いのかがわからない。
そら違うと思う。
強くなることを他人に強制したこともないし、同じ道をとれと言ったことも無い。あなたの選択があなたを作ってきたんであって、私は関係ないのだ。なぜ比較対象として私がでてくるのかがわからない。
さらに強くて良いね、というように、羨むような発言をする。しかしそれってお門違いじゃないですか?とは思う。自分のとった行動を他人と比較してどうするとおもう。あなたの不幸と私の不幸は関係ないじゃん、とおもうのだけど。
おもうだけで、口には出さないでいます。



最近益々自分がどれだけ不幸でってことを書いてる文章を読んでもあまり同情とか思わなくなってます。たぶん、冷血なんだとおもう。