沈黙

亡くなられたムスティスラフ・ロストロポーヴィチというチェリストが若い音楽家に対して指導してる映像というのをずいぶん前に見てて気づかされたことのひとつに「沈黙」があります。
ある休符のあつかいについてなにかをいいかけて、小澤さんがオケを止めて小澤さんも含めてロストロポーヴィチさんのいうことにみんな耳を傾けてたのですが「沈黙っていってもいろいろあるでしょう?なにかいいたいことがあるんだけど、それを巧い具合に言葉につむぎ出せなくて黙ってしまう沈黙とか、そういうことを考えなくてはいけない。ここの休符はわざと沈黙してるのではなくて言葉が出ない部分での沈黙なんだ、それを表現しなければならない」というようなことをたしかいったはずです。はずです、ってのは、その録画していたビデオ今手許になくて(付き合っていた相手のところにあるはず)確認のしようがないから、おぼろげな記憶で書いてるのですが。
その解釈というか音楽の捉え方が私には目からうろこでした。休符の意味合いとか沈黙の表現、って言うことを考えながらそれまで音楽を聴いていなかったからです。で、その休符に対してどういう意味合いを持たすかによって次のメロディに対する意識が違ってきますし休符にある環境に置かれて言葉を紡ぎだそうとして巧くいかない苦悩という意味合いがあることを知ればそのことを演奏にプラスしなければなりません。その言葉のあとの演奏は実際違ってきてました。


以降、音楽上で沈黙にも意味があることがある、っていうこと意識するようになってから音楽以外でも沈黙について改めていろいろ考えるようになりましたし、会話での沈黙っていうのを前に比べ意識するようになりました。脳内で言葉がひしめきあってるけど口の中でとどめたり巧い具合に言葉がつむげてなさそうという、その沈黙をもってなにかを知ることも多かったりします。言葉を選んだあとの言葉になってない部分を汲み取ることによってなにかを知ることもあったりします。「行間を読む」とか「空気を読む」っていうことの意味をなんとなく皮膚で理解するようになりました。
また脳内でひしめきあってる言葉の中からいちばん適した言葉を人間が使ってるのだとするならば、誰かが外に出した言葉の本質というのは口に声に出してる言葉そのものではなく行間や空気から滲み出てくるものなんだろな、と思います。
問題はいざというときになかなか完全に読み取ったり汲み取ったり識別できないので、しんどいのですが。


また意図した沈黙を相手に汲み取ってもらったり読み取ってもらえないと、ちょっとしんどいんすけど。ナニかがあったあと「やっぱり身体の相性がいいよね?」という問いに対して、欲しい言葉はそれじゃなかったし返答しようがなくてわざと沈黙したのにわかってもらえなく、がっかりした経験もあります。