法学部へいくと自分の信じる自説についてけっこう突っ込まれます。民法上例えば同性婚について規定が無いですけどこれを認めうるか否か、認めないとしたらどういう理由からか?とかのとき、根拠条文を引っ張り出してそれはほら憲法が予定するのは両性間の合意って書いてあるからとか、同性間だと社会通念上公序良俗に反するからだとか、それらについて考えさせられる機会が多かったりします。課題にどうやって立ち向かうかが問われ同時に他人を説得するというか、そういうふうに仕込まれるわけです。大学を出てかなり経ちますが、(どこかで論証のようなものを構築するという)パターンは抜け出せてません。なもんですから、漠然と向井さんの件が良いことだと思う!とか云われると素直にうけとめる感性が無いのか何がどう良いのか私はわからず、途方に暮れてしまうのですが。たぶん鈍感なのでしょう。


世の中においては答えよりその理由のほうが重視されることがあって、なぜそう考えるのかとか、少なくとも導き出した答えが正しいかより、相手を納得させられるかどうかが問題なのだと思うときがあります。社会にでて全部の指示を上から仰ぐわけには行かないと判断したときに実は勝手に判断して後で何故そういうふうに判断したかを大学時代の応用で云うようにしていました。それがたぶん妥当で当たり前だと思ってたからです。はじめて仕えた上が京都出身でそれを是認してた、ということもあったかもしれません。あれこれ指示しなくてもエエから楽させてもろてるよー、とか云われていました。ところがこれって名古屋大阪で通じても東京では一部通じにくかったりします。細かい指示が無いので適宜対応してたら間違えてなくとも「勝手な判断するな」、みたいなニュアンスを云われたことがあります。かといって全てを先輩筋に対してお伺いを立てる、ということはできないので勝手に?判断したりして何か云われたら後でケツまくれば良いや、みたいな開き直りで今を生きています。
もっとも課題を攻略するに当たり、何をしなければいけないのかを考えることができてそしてその考えの下何をどうすればよいのかを導き出して他人を説得して、とパーフェクトに出来れば御の字ですがそうは全てが行かないときもあります。いろいろと摩擦はあります。物事を進める上では。
それとサンプル数が多くないから有意ではないかもだけど、よく考えるのは、他人のやることに口を出して否定する場合は、およそ、否定する人のすすめるものが過去にうまくいったから、ということが多い気がします。たぶん善意でそれをいってるのかなと推測できるときもあるんですが、常に同じ状況というのはほとんど有り得ないわけで実は何も考えてないのと同じじゃないかと口には出さないけど思うときがあります。直面した課題に対して、何が必要なのかを考えることができていないで勘か感情か過去の大福帳をみてそのときの解法で解こうとする。シチメンドクサイときはあまり争わずに受け流しますが、個人的には問われていることの真意を知ることがこの人はできてないのではないかと疑うときがあります。過去を参照すればたぶん答えを探すことは間違ってない方向へ行きやすいけどこういう人は答えは一つとしかない!と信じてるふしがある。で、こういった人は課題からから求められていることを考えることをせず、求められていることに対してそれを実現できる対策は何かと考え始めることをしないで、場合によっては諦めるか方途がわからず右往左往することが多かったりします。また、いまある課題に対して答えがいくつもあるということが頭からすっぽり抜けているふしがあります。もっとも正解はいくつもあるとも言えるし、ないとも言える場合もあるんですが。


自分が正しい、とはあまり思いませんが身につけた思考方法は、方向を間違えることもあるかもですが、それほど破綻しないでやってける考え方なのかな、と最近思います。