「弁は立つなあ」

関西へ行くとイケズという言葉があります。けなしてるようでけないしてないような、不思議な意地悪な表現がまかりとおります。「さすがやなあ、弁は立つなあ」とかです。むかしお世話になった人がいわゆる京女で、こんなような云い方をしてました。弁は立つなあ、っていうのはほめ言葉のようで、よく考えるとほめ言葉じゃないです。でもけなしてるだけではないのがわかります。
弁が立つなあ、という言葉を投げかけられたらどう答えていいのか、武蔵野の雑木林の中で育ったむくつけき東男は最初わかりませんでした。まあ、ほめてくれてるのだからってんで「ありがとうございます」ってなことをいってた記憶があります。その受け答えがお気に召したのかどうかはわかりませんが、結構仕事のことを指導してもらえました。今でも頭が上がりません。
また、その場で云ってくれればいいものを、その場では云わなかったり婉曲的に云ったりします。しばらくしてから「○○○○、あんとき君はああいうたけどなあ、あんな」と批評がはじまった上で、どっか引っかかる言い方をします。しばらくして気がついたのですが、後で何か云う、というのは恥をかかせないための配慮なんかなあ、ってのがわかってきました。でもって「弁は立つなあ」ってのも、なにかしらのクッションのつもりだったんだろか、ってなことがわかってきます。
そしてそのうちイケズな物言いってのは愛情とか信頼感がないといってもらえないってことが、鈍い東男でもわかってきました。イケズな物言いの何割かは「親切」なんすよね。でもって「親切」の反対概念はたぶん「無視」です。どうしようもない相手にはイケズなことは云わない。で、イケズなことを云ってもらえるうちが華なんだろな、ってことも。


わがままなことを云うのもそうなのですが、イケズな物言いも、相手を選ばないと不発に終わります。その不発が怖くてわがままもイケズなことも公私ともにあまり云えません。でも的確にそこらへんを見極めて、ずけずけとものをいい、わがままを発揮して相手の懐に入ってゆく・相手に影響を与える人って居るんすよね。そこらへんのところ、どうやったら見極められるのか、正直判りません。私には見えないオーラのようなものがあって、それが見える人が居るんじゃなかろか、なんて思うこともあります。あまり人付き合いが巧いほうじゃないって自覚してるのでそこらへんの秘密を知りたいところなんすが、いまだ判りません。