すぐそばにあるコワさ

私は東京育ちです。当然、母語は日本語です。しかし、日本語でも東京以外では理解できないことがありました。何回か書いてるのですがまず社会人になって大阪へ放り込まれました。以前書いたかもしれませんがはじめての土地で言葉も慣れないところである日の仕事終わりにけっこうきつめの先輩が私の前に来てぶっきらぼうに「名前覚えといたるわ」といわれて去っていったことがあります。意味が理解できないとちょっとコワいです。これをきいたときなにか気がつかないところで失敗したのかけっこう不安になりました。しばらくして当の本人や同僚から「名前おぼえといたるわ」というのは認められてる・褒めてるっぽいことを理解したのですが、えらいところに来たな感がありました。そのあとは名古屋です。直属の上司の上のほうから直接「あんばようやってちょーよ」と云われたときになにを云ってるのかわかりませんでした。ニコニコしながら云われたので怒られてるわけではなさそうだぞ…というのは理解できたので「はい」と答えたのですが、直接の指示の言葉が理解できないとやはり不安になりました。名古屋出身の同僚に訊いて「塩梅よくやっといてな」ってなことは理解できたのですが。語彙が増えたいまとなっては↑ここらへんのことは笑い話ですむのですが言葉ってのは不安を引き起こす怖さを持つ側面があることを大阪と名古屋で理解しました。と同時に、自分の持つ言葉が他人と同一とは限らず、自分の持つ言葉が伝わるとは限らない、ということを思い知らされた経験でもあります。
対面で話していると言葉以外で表情などからなんとかなることがあるのですが、Webも含め生きてるといろんな経験をさせてもらったのですけど、文章が方言のない日本語で書いてあっても理解できない、ということがあったりします。自分の持つ言葉が他人と同一とは限らず、自分の持つ言葉が伝わるとは限らないという経験をしても、不安どころか恐怖でしかありませんでした。もちろん文章を編んでこちらがなにかを云っても伝わらないし理解してもらえなかったりってのもあったりします。根っこに「理解できる」というのがあるから怖さを引き起こすのかもしれません。「言葉を連ねても理解してもらえない世界」「言葉が並べてあっても理解できない世界」というのは実感としては絶望しかないです。誰もが優れた読解力をもつわけでもなく、誰もが優れた美文を作成できるわけでもないわけで、そんなことほぼSFの世界だと思っていたのですけど、案外すぐそばにあります。はてな今週のお題は「ちょっとコワい話」なんすが、言葉って存在は絶望の海に放り込まれるつまずきの石になりえて、ちょっとコワいもののような気がします。もっともここらへんのことって若干とりあたまゆえにすぐ忘れてしまいがちで、事態に再度直面して「あ、前にもこんなことあったよな」っていうふうになっちまうのですがって書いてておのれの愚かさを連ねてるだけのような気がしますが。たぶん、この先なんべんもコワい目にあうのかもしれません