オマケが欲しい

下半身の話をするとなんか自分がイタイ子だとおもうのですが、もう少し書いておきます。


人を好きになるとなにかしらのかたちで近づきたい触れたいと思うのは自然な感情ですがそういうのを置いておいて、好きでもない知らない人とのセックスと知ってる人とのセックスはどこに差があるのかといわれたらあまりないような気がします。前戯があって挿入行為があって、とかです。ただ、無いかもしれない差異がどこにあるのかといわれたら、たぶんそれは配慮とか遠慮だとおもうのです。恋人や知ってる人なら今後の事を考えて嫌われないようにいくつかの配慮を必ずする可能性が高いと思うのです。共同作業の行為の後におしぼりで身体を拭くとか一緒に風呂に入るとか、うまい飯喰わすとか言葉で労わるとかです。見ず知らずの人だとそれが必須ではないきがします。その分気楽かもしれません。名前も知らない相手ならそもそもお互いに好き勝手にできるでしょうし、添い寝なんかしてくれない可能性が高いでしょうしそんなこと互いにはなから期待してない可能性が高いでしょう。挑発しなきゃいけないくらいの共同作業にならず自分のテンションあげておかないと場が持たない他人任せのひともいるはずで、テンション下がるようないちいち細かいこと聞いてくる無粋な人もいるでしょうし、「コイツ自分の気持ちよさだけを追求してんな」とおもえるような自分だけ快感が得られればいいって人もいるでしょう。
思うに快感を得るプロセスのうち運動のような行為そのもののほかに前後の振る舞いの重要さが差異だとおもいます。近い言葉としては親密さの具現だとおもうのです。およそおまけのめんどくさいこれらの行為が、満たされるか否か、殺伐とするかしないかの差だとおもうのです。また、照れとか恥じらいとかを感じる自分を解放することにこれらのことがリンクしてくるかもしれませんが。


人を好きになるとなにかしらのかたちで触れたいと思うのは自然な感情、と書きましたがこれが私にとって正で、そうでない劣情っぽい衝動の結果は負であったりします。単に好奇心とか衝動的にセックスしたくなるような感じの劣情です。こういうあとは私は大抵何か「避けることができたのにやっちまった」みたいな負の感情がうっすらあります。それとどこかにまもらなければならない規範を破ってるっていう意識があります。それが負の感情を増幅させてる気がします。



知らない人とセックスして、たぶん私がどこに引っかかったかというと、前後のめんどくさい「もっとかまってー」という部分の欠落の発見なのだと思います。グリコのキャラメルだけじゃなくておまけも欲しがる幼児のようかもしれません。おまけがなくとも盛り上がることもありましたし、見ず知らずの人とセックスして負の感情を持ったとしてもセックスが嫌いじゃないですし、否定もしないですが、前後のオマケがないことの寂漠感というか無くて当たり前の感覚である点がちと足を遠ざけてる原因であるかもしれません。能力があるならそれを使わないのなら罪なことだという意見をどこかで読んだことがありますが、私は見ず知らずの人を誘惑してセックスできる能力があるもののそのとうりがんがんセックスしたらたぶん負の感情に押しつぶされるでしょう。
快感のほかに何が欲しかったかといったら、たぶん親密さだとおもうのです。つまるところ私はどこかでセックスをすれば欲してる親密さをごまかす事ができて、何とかなるとおもってた節があります。けど見ず知らずの人とセックスしてもそんなものを得られることはすくないってのをちょっと経験して把握したというか。欲しいものが親密さでそれを得られないってわかってて続けるほどしんどいことはないでしょう。ただ、しんどいってわかってても私は愚かですから快感を得るために寝ることがあるかもです。親密さなんてものは簡単に手に入るものではなくてゆっくり熟成させてかないとむずかしいということもわかってますし、寂しくても他のもので我慢できることがなんとなくわかってても潔癖でないからやっちまう可能性があります。なるべく負の感情を持ちたくないがためにそういうセックスをしないようにしたいと考えてるもののこのダイアリーをかいてる人間はほんとーに意志が弱いので、こうやってかいて歯止めにしようと思ってるのですが。