鳴かぬ蛍も身を焦がす

ネット上の知人から聞いた、性欲は終了するのか?ということに対しての雑感です。
たぶんとても奥深い内部から発する、ものすごく強烈な、ときに持て余してしまう熱のようなものを、私は人を好きになったとき持つことがあります。ひょっとしてそれがあるべき性欲なのかなーと思ったりします。ただ、たぶんセックスはそんな熱を持たなくとも誰とでもできるとおもうのです。見知らぬ人ととセックスして思いもよらぬ快感があることもあるはずです。誰とでもできる行為だけれども、好きな人としたいし、セックス以外のこともしたい。
その熱を持っていて、相手がどうでてくるか確信が持てないときに賭けといったらおかしいけれど賭けにでて、こちらの希望を感じてもらえるかわからないものの必死になって触れてもらおうと頑張ってラフな格好をしたり、多少不必要に近づいたり、向こうがその熱を持っていそうなときは堂々としていながらも獲ものを狙うような目でサインを逃さないようにしていました。キスとか、触れる、とか、まさぐるというのは意思がなきゃできないことで、そのチャンスを作るのが重要だろうとおもったからです。字にするとなんか滑稽ですが。
熱を持ってしまって、キスして欲しいけどキスしてもらえないし触れて欲しいけど触れてもらえない、というもどかしい経験を体験してはじめて
「柔肌の熱き血潮に触れもせでさびしからずや道を説く君」
という歌が、ああ、こういうことなのか、と理解できました。与謝野晶子がどういう状況で歌ったかはわかりませんが、内面的情況は手に取るように理解できました。
好きという感情と、理性では抑えきれないような衝動的な狂気のようなものと、リンクすると思うのです。ひょっとしたら気持ちは即、消えるかもですが、思って身体を熱くした経験や身体を愛されたことはなかなか忘れないと思うのです。気持ちの告白以外のことを示してよ!というのを求めるのが性欲なのかもです。


「恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」
という都々逸もありました。ひょっとしたら意味は違うかもですが、恋に恋して恋したいとわめくころよりその後が苦しくしんどいのではないでしょうか。熱があって言葉に出してあなたが欲しい、と云えればいいですが、恋のはじめやそのさなかでもなかなか云えないことが多いと思います。全てこれらのこと、性欲に端を発してる気がします。プライドがあったりすると云いにくくて苦しいでしょう。苦しいこともあるのに、なんで人間は恋だの愛だの言うのでしょうか。もう恋なんてしないなんて云わないよ絶対!なんてのもあります。セックスが絡む恋愛がたぶん熱病のときのように冷静な判断ができなかったとして後悔してもお釣がくるほどの甘美な体験でもあるからだとおもうのです。
恋したときの熱が、終了するってあるのでしょうか?幸か不幸か苦しいけど甘美な焦がれるほどの体験をしちまったのか、性欲が終了するということは私には想像できなかったりします。
誰かを恋いうるこころがあれば、恋は遠い日の花火じゃないというCMじゃないけど年齢は関係ない気がしますし、、性欲がなくなるなんてあり得ないんじゃないのかなーと思うのです。誰にとっても