存在、ということを普通あまり意識しないと思います。
be動詞というのは中学校の英語で必ずやります。そこには存在という意味があると教えられますし、辞書にも載ってることでしょう。This is a penで「これはペンです」が、なぜそのペンと呼ばれる物体が「ぺん」とよばれるのか、もしくはそこに存在するのかというのも、じつは存在を考える上で重要なことで有ったりします。He is no moreで「彼はここにいない」ですし、To be,or not to beでは小田島雄志早大教授の名訳をつかえば「生きるべきか死ぬべきか」です(自分が存在していいのかどうかという問いです)けど、実は日本語を使う我々は普通に生きてるとなぜ生命や物体が存在してるのかなんて考えないと思います。哲学を専攻したとかなら別論でしょうが。



そこにブログがあって、誰かの日常が綴られてたりします。で、なぜその日記が存在するのかについては普通あまり考えないでしょう。なんで公開されてるのかとか、どういうつもりかとか、思い至らない人は必ず存在します。他人のプライバシーを覗くことは実は甘美なことかも知れず、その誘惑に負ける人も多いでしょう。そこに存在して公開されてるから覗くということは決して批難されるような悪いことではないはずです。
ただ、なぜそこに存在してるのかということに思考がいくことはまず我々日本語をつかう日本人からするとまずないはずです。日本語にはbe動詞がないからです。そういう訓練を言葉の構造上の問題としてうけることがなく、したがってそのブログがどういう人が書いててどういう理由が有るかとか、普通あまり思い至らないのではないでしょうか。


また存在ということについて深く考えることがすくない日本語を使う我々は、実は自分の存在など意味がないのではないかという不安をこっそり抱えがちであるはずです。それを埋めるためにはどうするか。何のことはない、自己表現することで他人の視線を意識することができ、また他人とコミュニケーションをとることで他人の反応を見て自己の修正が可能です。もっと手っ取り早いのは誰かのブログやホームページにアクセスしてそこに書いてあることに反応を示すことでしょう。少なくともそのことで自分の立ち位置を他人の力を借りながら把握することは可能です。その他大勢ではなくて何らかの関係性ができることでどこかに繋がってはいます。ブログというツールは実はそれらのことを容易にできる魔法の杖であったりします。望ましいのは自分で自分の立ち位置をつくることでしょうけれど。
自分が世界に直接参加しているという実感を持ちにくい我々にとって、ネットというのはなんか世界に参加してるような錯覚を感じさせるものであったりするとおもいます。


物語のような日記があったとき哀れで賢くない私などは、過ちを犯しそうであります。日常の日記に対して何らかのレスポンスを自分のブログでするということについてです。それはやってはいけないような気がします。いや、正直に告白すると実は一度他人のブログについてこのダイアリー上で述べたことがあるのです。考えてみれば直接相手にいえばいいものをこちらに書き、たまたま先方が運よくそれを見て、水に流してもらえたようですが赤面ものであったりします。他人の日常に介入したところでうまくいけば別論ですが、あまり奨められた行為ではないでしょう。そのときは善意のつもりで書かずにはいられなかったのですが。


自分の書いたダイアリー以外のものは、書いた人のものであってそれ以外のものではないでしょう。他人の日常の日記についてなぜその日記が存在してるかを考えたりすれば、共感を示すとかは別としても別の自分のブログ等で他人の日常について記述するというのは実は滑稽なことだと(自省を込めて)思いますです。直接云うのはまだしも、それは本人のいないところで悪口を言うような小姑と同類かもしれません。批難されるかどうかはわかりませんがたぶんそれは嫌われること間違いないのですが。


正直に申し上げて私は審判員ではありません。
ですから、上記のことはすべて私見です。
あえて何かを弁護するならば、何かの事象が起きたとき、誰もが実は何かを語りたくなるものだというか、意思表示はしたくなる気持ちは理解できなくはないのですが。