刑事裁判なんかで、例えば「貴方は恋人を殴るのをやめましたか?」という尋問をすると、たぶん弁護人は異議を述べるでしょう。形式的論理としてや、文法的にはオッケイなんですけど質問がおかしいからです。殴っていることが前提に有ってそこから離れることができなくて、これにノーとこたえれば依然として殴ってることを認めたことになりますし、イエスならば過去に殴ってたことを認めたことになります。




質問がおかしい、ということは誰だってやりかねないことであったりします。
「あなた私のこともう愛してないでしょう?」と、問うた時に、それは文法的にはただしいのですが、やはり不毛です。質問が曖昧で、かつ、証明が難しい場合は不毛なのです。
仮にこの問いに答えたとき、それがイエスならば愛してないことになりますが、まだ愛しているときにはノーと答えなきゃならないんですけど、それを証明するのが困難であればあるほど無理をしているという印象を当事者相互に漠然と抱かせてしまう危険があります。この質問の前提は「もう愛してない」が前提ですが、愛という水っぽい曖昧な単語がマズイのです。どういうものかがハッキリしないと、回答も曖昧になります。
応用編で「私はまだ生きてていいの?」「私はここにいて違和感無い?」とかも不毛です。生きてることにどれほどな価値があるのかとか、違和感とは何かとか、曖昧すぎて証明が困難な、回答者に多大な証明を課す質問だからです。仮に誠実に解答しようとしても、曖昧な抽象的質問を投げかけられてるわけですから、具体論で答えたらすれ違いになるでしょうし、抽象論に徹すればまた証明が難しいですからきわめて回答者が難儀な苦労を背負いながら苦悶してこたえても説得力が薄い結果に終わります。



このような質問を投げかけられたときの正しい態度は何かといえば、曖昧さの除去と事象の明確さを求めることでしょう。もう愛してないでしょう?と問われたならば、どのようなことが愛してるのかの証明になるのか、訊きかえすのがいちばん良かったりします(修羅場でそんな事やってる余裕なんてねーよって声もあるでしょうけど)。私はここにいていいの?っていう問いに対しては、じゃ、何でここにいちゃいけないのかを問うべきでしょう。違和感ってなによ?という問い詰めもいいのかもしれませんが。



少なくとも曖昧さの除去や証明すべきことの明確さをハッキリさせるのは、質問者のなすべきことであったりします。回答者は問い返さないと不利でしょう。民事で争ってるわけじゃないですから正確にやる必要はないでしょうけど。
またラビリンスの入り口は、私は実は前提条件や、質問の曖昧さにあるんではないかと睨んでますが、ほんとのところはどうなのか、昨日考え始めたばかりなのでよくわかっていなかったりします。