小学校の頃周囲は西武ライオンズファンが多かったです。遠足だとみんなあの薄めのブルーのレオの帽子、もしくは巨人の帽子を被る友人が多かった。そんななかひとり近鉄バファローズの猛牛の帽子を被ってたのが私です。近鉄ファンでした。大石大二郎なんて選手いたんですけど東京だと知名度が低かったです。そのころから周囲と違ってても特に別になんとも思わなかったです。合わそうとも思わなかった。そこらへん、他人と違っててもあまり構わない、というところがありました。少数派がそのころから怖くなかったのです。


つい最近、ミクシにまつわるいろんなことを聞いていて考えたのですが、「マイミク」というのは「仲良し」ということなんだと思うのです。で、私はミクシに招待してもらいながらも「仲良し」を積極的に増やそうと思いませんでした。西武ライオンズに囲まれている近鉄バファローズ好きという少数派であった過去があるので孤立があまり怖くなく「仲良し」が少なくてもかまわない、なんて思ってましたから、マイミク申請なんてものを積極的にしようという発想がなかったのです。逆に、ミクシ内になんでそんなに「仲良し」を増やしたがる傾向があるのか、わからなかったです。同時に私は「マイミク」システムというのが解せませんでした。お互いに「私たち仲良し」と確認しあい、その相手と数をトップページで公開するという点です。なんでいちいちお互いの「関係」を確かめあって、しかもそれを第三者に見せるんだろう、というのがありました。やはりあれは多いほど、勲章になるんでしょうか。このシステムからはたぶん「マイミク」が少ないということ≒「仲良し」が少ない、というマイナスイメイジを導き出すことが可能でしょう。まずこのシステムがちと「不気味」なものに思えました。さらに私はひねくれてるので「仲良し」が多いことにどれくらいのメリットがあるんだろう、と思っちまったのですけど、こんなことを考えるのは少数派かもしれません。


正直に告白すると不気味さでは違うかもしれません。正確にはこのシステムの根底にあるかもしれない「友達100人できるかな?」という童謡に似た「仲良しが増えること≒善」という考えの気色悪さから来る、嫌悪感のようなものです。


マイミクとマイミクでない、ってのは「仲良し」と「その他」に近いんではないかと思います。「仲良し」から「その他」になるのが怖いし、あなたは仲良しじゃないよ、って宣告されるのは誰だって怖いのではないかとおもいます。それはわかるんですが。ミクシは殊更それが厳然とわかるシステムだよなー、とうっすら思います。「仲良し」「仲良しじゃない」って言う選別が目に見えて行われるのはリアルもネットも同じで、それを考えると残酷なシステムかもしれません。小学生的メンタリティの「仲良し」グループが出来てて、そこに入れて?って訊いてから無視されたり断られることは、断られたほうからすると残酷であったりするでしょうし、断ったほうからすると優越感を感じるかもしれません。大人が大手を振ってやれる、唯一の排除の論理かもしれません(一歩間違えば「いじめ」になりかねないんじゃないかな?)。私は率先して「仲良し」グループに「入れて?」と頼む必要性がないような、だれかと群れて居たい、と思わない人間なのでマイミクが少なくとも疎外感はなかったのですけど。けどこのシステムに疎外感を感じる人や落ち着きがなくなる人、不安になる人はいるだろうな、というのは容易に想像できました。たぶん、そういう人がミクシに依存するのではないかと思うのですけど。


もちろん私とて「仲良し」を作りたくないわけではありません。ただ「孤立が怖いから仲良くしたい」とも思いませんし、「仲良し」を誇示し確認しあうのが不思議で仕方ないのです。なおかつ、それを媒介するのが個人的営為である日記である、というのが謎なんですけど。


ミクシのシステムが判ってから気がついたのですが、ミクシは日記にコメントがつかないとたぶん不安がる人も多いと思います。逆に私なんかはコメントつかなくてあたりまえというスタンスでやってきたので、コメントがつくことにものすごく違和感を覚えたのです。公開はしてるもののそもそも私的な日記ですから、他人のコメントがつく、というのが不思議でならなかった。で、このコメントというのがくせもので、なんか明確な規則はないけど「読んだらコメント」という幻想があるみたいで、以前「ミクシ読み逃げされた」ということが騒がれるくらいなことを考えると、さらに不思議な世界だなーと思いました。
ひょっとしてコメントすること、相互にコメントしあうことが「仲良し」の証明なのかも、と思うのですが、実のところはどうだかわかりません。けど、コメントの有無で心乱されたりする人もいると思われるところからすると、「仲良しの証明」を欲してる人がいるのだと思われます。
コメントを貰っておきながらよそ様のところにコメントしないわけにはいかない気になってきました。で、ブログですらコメントが他人様のところに器用に出来ないような人間からすると、よそ様のところに出かけていってミクシでもコメントすることにとても勇気が要り、あまり出来なかったです。今から思えば社交辞令でもいいからコメント残せばよかったかもですが他人の日常の日記になにを書いていいのかが判らずじまいだったです。他人の日常を知りたいのではなく、他人がなにを見て、どう思ったかが知りたい、ってのがあったからってのもあります。私はミクシ的な「仲良し」関係を築くのが、どうも苦手だったみたいです。正直に告白すると「どういう記事に、どういう内容の、どういったコメントを残せばいいのか」がわからなかったです。


また、どこか他人の通常の日記を覗くことに抵抗感がありました。ブログは公開を前提にしてますがミクシは半分未公開の場であり、それを考えると人間どこか秘密を抱え込んでて蓋をしてるはずと思い込んでて、で、未公開ながらも覗き込んでもいいよと許可を得たものの蓋を取って覗き込むようなまねがどこか下品な気がしてならず足が遠のきました。
記事も最初はこのはてなのコピペで対応しようと思ってたのですが、どうもはてなのコピペだと差し支えるような、そんな気がしてきたのです。なんのことはない、私の書いてるものはあまり日記にもなってません。また、たまにどろどろしています。で、かといって、通常の普段の日記を書いてもいいんですけど「朝起きた→出勤→書面に誤字ハケーン!それとなく伝えたあと調整→通常業務→帰宅→記事アップ→チャット→就寝」ぐらいしか書けないし、これだとメモです。


数日で、向いてないかも、という自覚が出来ました。繰り返しになりますが本質的に開かれた場所で「公開されないことが多かった個人的な日記」を書き「他人との仲良し関係」を含めて公開する、というシステムに対する違和感が一週間もたたないうちに体内に満ちてきました。その後月一くらいで書いてましたが、招いてくださった方には不義理を重ねているのですが、現在ほぼ放置状態になってます。すいません。




ネットってなんなんだろう、という漠然とした疑問がたまに浮かびます。やはりリアルな社会の縮図なんでしょうか?私はいまは縮図というより人間のいやらしい醜い部分が人工的に再現され純化して濃縮され、再度体内に入り込んで心を揺さぶってる劇薬のような部分があるような気がしてなりません。ミクシは私は近鉄好きという免疫があったから回避できましたが、少数派になることを恐れ疎外感を感じやすくてそれを恐怖におもってる人や孤立が怖い人がたぶん、薬物のように依存しやすいんではないかと思います。


ネットという、麻薬と同じで足抜けが難しく困難で、またどこに落とし穴が転がってるか判らない世界の鍵を、今日もまた開けちまいました。
あ、ひょっとしたらもう依存してるのかもしれませんけど。