去年の五月くらいにブログをやめてミクシも最近脱落した人が居て、以前意見交換みたいなかたちでブログについて「自己満足でいいんじゃないの?」というその人の意見を聞いて、ああ、そんなもんかな、と、思ってました。考えてみれば紀貫之の時代から、どうでもいいことをつらつら日記にして公開する風習があるといえばあります。そうなのかもしれません。「書くのはその人の自由」とか「人の考えはそれぞれ」とかそんな理屈はあるんですけど、ただ、前回のエントリのような独白って、実はどんなもんかな、と思いはじめました。負のスパイラルを下りはじめちまったみたいです。独白というのは、自慰的なものかもしれません。他人が必要ないからです。それを公開するからこっぱずかしさが出てくるのでしょう。アイドルとか政治家とか小説家が思うところを独白する、というのはたぶん価値があると思うのです。特殊な立場から見た視線が他の人にとって価値がある可能性があるからです。太宰治富嶽百景なんてそうでしょう。ブログでもヒット数が多い場合は好き勝手書いてるように見えてやはり視点が独特な文章として成立している可能性がありえます。比べるのが間違ってますが、公開する価値があるかどうかわからなくなってきました。


何でこんなことを考えたかというと「私の話を聞いてー」と、いうのは「うざったい」というのと表裏一体だなー、と思いはじめたからです。ここのところ極めて思考が攻撃的になってて「私の話を聞いてー」、というのをやられると反発するようになっちまってて、独特な視線とか特殊な視線から語られた独白というのは極めて興味深いのですが、親しくなければ別に「うざったい」場合があるんではないかと思うのです。その辺のOL、サラリーマンや学生の悩みや弱音なんてどうでもいいでしょう?ストリップの押し付けと同じで、見たくない人も居るんとちゃうかな、と思いはじめました。個人的に自分の思考を再確認する意味で書きましたが、見たくないストリップを見ちまった方、すいませんでした。

けど、身から炎が出るくらい恥ずかしい体験をしないと、人間って「自らが思い描くような自分」に近づけない気がしますです。