キレイな標準語ですね、と北海道で云われたことがあります。方言のないような気がする北海道ですら、標準語でしゃべると目立ってしまう。その標準語しかしゃべれなかった人間が就職後大阪に放り込まれてみると明らかに目立ってるのが自覚でき、ささいなことでもはたからみると怒られてるような口調で指摘され、戸惑いました。慣れない言葉に戸惑いながら、これじゃまずいじゃん、と考えて小言を貰わないようにどうすればいいか自分で考え計画して、理解しなきゃいけないことを把握して、わからないことは正直に怖かろうとなんだろうと先輩にききにいき疑問をぶつけていきました。不思議なもので、仕事が終わってもそういう相談は不思議と嫌がられず、しばらくするといろんなことが見えてきて毎日頭をひねって考えて、思いついたらなるべく実践し、何回かは失敗してそれとなく怒られたけども、上手くいったこともあって、その頃には完全に名前を覚えて貰うことが出来、大阪弁に抵抗がなくなり溶け込むことができるようになりました。
名古屋でも、どこかよそよそしく、また名古屋人じゃないな、と思われてるのが判ってからは名古屋がどういうところか理解しなきゃはじまらないと思い、積極的にどういうところなのかとかを訊きに云って名古屋弁をうっすら覚え、さらにピンチのときに同じ汗をかくようにしたりして、名前を覚えてもらいました。



自分の親が病気になったときもそうです。このまんまじゃまずいと思って、図書館へ行ったり、病院勤めの従兄弟に連絡とって勉強をして(理解を深めたつもりになって)、疑問をドクタにぶつけました。たまたまかもだけど、ドクタは丁寧に説明してくれましたし、信頼関係が出来てからは父が死んでも精一杯の努力をしてくれたことが判ったから、恨みもでてきませんでした。


趣味もそうです。クラシックなんて判らなかったから、自分で調べて友人に訊いて、覚えていった。歌舞伎も訊けば歌舞伎座の幕見席では教えてくれる人が居た。セックスもそう。自分に自信がないから相手の反応がすごく気になっていて、たぶん言葉じゃなくって相手に訊いていた部分もあって、そうやって覚えていった気がします。




自分から動かないとダメなときってあると思うのです。訊くは一瞬の恥、とはいうけど、確かに恥ずかしいことだとおもうのです。けど、その恥ずかしさを乗り越えないと、恥ずかしい体験をしないと、自分から動かないで「自分は○○だから」といって逃げてたら、岩屋から出れないと絶望する山椒魚に退化してしまう気がしてならないです。動いていたつもりになってたけど知らぬ間に自分が山椒魚になってた部分があったことに気がついて、自覚したのですが。恥ずかしさはか弱い自我を鍛える最良の薬かもしれません。


動かなきゃ。
その自覚もあったりします。
年をムダに重ねると恋愛であってもそれ以外でも恥をかくのがつらくなってきますが。