ブログを何のために書くのか、というのを実は深く考えずにはじめちまってて、棚上げしたまま来ちまってます。で、そもそも最初、誰かに伝える意志というものがありませんでした。誰も読まなくていいや、みたいなところがありました。ただ、誰かに伝える意思がないってことは書いてる意味ないのかなー、と思いはじめたのです。どうせやるなら何かの役に立とう、意味あること、と思って自分の思考を公開しはじめたのです。実際役に立ってるかどうかはわかりませんが、離婚や772条関連の検索が多いところをみると社会にちょっとでも役に立ってるのかなーと自己満足を得てますが。で、文章として書き記すことで「誰かに理解されたいから」というのが出て来ました(何べんも書いてますが自分の身の回りのことを書いてないのは自分の身の回りを理解してもらおうという意識が希薄だからです)。それがうまくいってるかどうかはわかりませんが。


匿名ゆえのネットでしか云えないことはけっこうあって、それを吐き出せただけでもいいのかなー、と思います。たぶんそれもメリットのひとつ。


べ、べつにわかってくれる人だけわかってくれれば良いんだからね!といって理解してもらおうというのをやめることはいいのですが、それは「言ってることをできれば理解してほしい」ではなく「言ってることは無条件に理解されるべきだ」ということなんだろうなー、と拙いものを書きながら思った事があります。私はそれを避けたい。前回のエントリを書いてるときにつくづく思ったのですが、たまに意見があわないで理解不能になって会話が成立しなくなるのは「言ってることをできれば理解してほしい」ではなく「言ってることは無条件に理解されるべきだ」と思うからこそ他人の意見を聞く必要がないからなのかなー、と思うのです。
個人的にリアルにあったことをいうと、ある法的効果に関連して根拠条文を出して説明してアドバイスしてたらとうとうと自分の立場の説明や意見を陳述されて辟易した覚えがあります。いや、あなたが良い悪いではなくって、問題になるのはあなたがこの点についてこう主張しないとあなたは不利になりますよ?ということが判ってもらえなかったのです。先方はそうではなくってたぶん、自分が間違ってないって云う言質をとりたかったのかなー、と気がついたのですが。
つまるところ「言ってることは無条件に理解されるべきだ」というのは、寂しいの、私を愛してー、構ってー、ほめてー、という叫びに近いのかなーと。反対意見を述べるというのはたぶん、相手による否定ととらえる人も居るだろうし拒絶に近い印象を与えるんだと思います。ヘタしたらどんなに自分が心を開いても誰も理解してくれなかった、などと思うかもしれませんがそれこそ思い上がりで個性のぶつかり合いどころではなく、単なる不安から来る拗ねでしかないのかなー、想像します。それこそあわてて作ったあく抜きをしなかった味噌汁を相手に差し出してつきかえされてしまって誰も私の料理を理解してくれないのー、と嘆いてるような感じかもです。


会話とか相互理解ってひょっとして、奇跡みたいなもんかなー、と思います。
うう、うまくまとまらない。
この文章、理解してもらいたくて書いたのですが、理解してもらえてるかどうか怪しいです。ほんとこういうとき語彙の未熟さを痛感します。