明治時代から変わらないもの

素のままの自分を受け入れてよ?という人がリアルにもたぶんネットにもいます。

例えば自分が思ったことや他人との間にズレが生じたときにそれに気がついておそらく何らかの形でそのズレを修正し、きちんと誘導したり差異を把握できる人というのはどんな会話でもきちんとした会話ができる人だと思います。でもそうでない人は居てそのズレに気がつかないと意見を伝える事のみに終始してしまいがちになってきます。結果としてズレの修正が利かず、相手の話を継いでそれを取り入れて話すことが難しくなり、相手の意見の意味が不明になっていくからどんどん自分の思ったことの意見を主張するようになります。その意見を聞くほうはとてもしんどいと思うのですが、もう片方は相手を慮らなくていいので楽なはずです。たぶん。
素のままの自分を受け入れてよ?というのは修正しないまま相手に受容を図るようなものじゃないかな、とおもうのです。コミュニケーションというのはたぶん、受容を無条件に迫るべきものではないのですが。
個人的にはそういうやりとりは苦手だったりします。

「親切の方の自覚心はまあいいがね」と独仙君は進行する「自覚心があるだけ親切をするにも骨が折れる訳になる。気の毒な事さ。文明が進むに従って殺伐の気がなくなる、個人と個人の交際がおだやかになるなどと普通云うが大間違いさ。こんなに自覚心が強くって、どうしておだやかになれるものか。なるほどちょっと見るとごくしずかで無事なようだが、御互の間は非常に苦しいのさ。ちょうど相撲が土俵の真中で四つに組んで動かないようなものだろう。はたから見ると平穏至極だが当人の腹は波を打っているじゃないか」
夏目漱石吾輩は猫である」より

昔に比べて個性の主張ができるようになってから文明人の自覚心は鋭敏になり、また自他の利害(のようなもの)の隔たりを知りすぎてしまったので自分も世間も窮屈になるばかりだ、と漱石は述べてるのではないかとおもってます。人付き合いのしんどいことは明治時代も今も同じってことなんでしょう。

私は誰かと意思の疎通をしたいとは思うほうですが、うまくいってるかはわかりません。

たまに自分の語彙の貧しさや狭量に絶望的になったりしますけど。