ある方からメールを貰って、社会で流布されてる分類でいうところの「自分」については3つの姿があって、他人から見た自分、自分で見た自分、本当の自分という三分類できるうちの、自分で見た自分というのをかいてみたらどうかというサジェスチョンをもらいました。


で、
本筋とは関係ないけども引っかかったのは、
本当の自分って何よ?なのです。
よく聞く言葉なのですが。確かに。


私は、その視点はどこから見た自分なのかな?と思うのです。
自分で見た自分というのと、他人から見た自分というのは理解可能なんですが、そうでない本当の自分がいるという思想があるのかもしれません。
私は、お下品な表現で恐縮ですが、童貞でもなければ処女でもないので、いざとなったら他人がいれば物理的に自分を認識することが可能です(どうやってかは、想像してください。もっとも簡単なのは、恋人とかの口の中に舌を入れてみればわかります)。
そうではなくてなのかな。


これもドーナツの穴とおんなじで、ドーナツが存在するときにドーナツの穴が存在するのと同様に、本当の自分というのは自分ということについて思考したときにだけでてくる発想だとおもうのです。
で、そもそも、対人関係や社会において自分じゃなきゃいけないようなことというのは恋愛等を除けばほとんどなくて、おっかないなーと思うのは、予想にすぎないのですが、どこかに理想の自分というのを定義して、それを本当の自分として仮定して、エンドレスでそれを追いかけてるんじゃないかなー、ということなのです。もし仮に本当の自分というのを捜している人がいるのならばの話ですけど。


ヲタの人に限らず、自分の理想というかあるべき姿を本当の自分として設定してしまうと、条件によってはエンドレスで僕って何?という問いをし続けることになるのかと。

たぶん、出あいたい自分というのがあって、現実の自分を見てそうじゃないとなると現実を否定したり不安になって構って貰いたくなる。問題は理想像の設定であって、褒めてもらえるような自己愛の塊みたいのだと永遠に問いの答が出ないとおもう。

どっかに似たエントリを書いた気がすると思ったら、3月に書いてました。
この点私は、本当の自分というのを模索したことはたぶんないです。
けっこうお馬鹿なことをしたとしても、次の日には逃げられない現実のようなものが常にあったせいかもしれません。


(後日記:この、本当の自分というのは自分でも気がついていない自分ではないかという指摘がありました。その可能性はあります。)