ちょっと前に深夜番組で奈良の地理に疎い三人組を奈良県各地に放り込んでそこから京都の下賀茂までつけるか、ってのをやってました。思わず見てしまったのですが、奈良の地理が判らないためにたしかにいくらかはたから見ると妙な行動をしてて、記憶が間違ってなければ東大寺に放り込まれたひとりは京都行き電車のでる奈良駅に向かわずまったく反対側の若草山を目指していました。
スザンヌというひとやつるの剛士でもいいんですけど、なんでうけてるかっていったら、彼ら彼女らが普通は「間違わないだろう」というところで間違うところが面白いから、のはずです。その面白がる前提条件として日常生活では普通の市井の人はそんなところで間違わないし、っていう先入観があって無難に巧くこなすことがあたりまえだったりします。巧くこなすことがあたりまえな前提なので、普通の人にとって間違えることは非日常です。他人が間違ったりするのが見ていて面白いのは日常生活から間違いや失敗が遠ざかってるはずだから他人の失敗や間違いが面白く見えるのであって、そして面白いのと同時にあははと手軽に笑えることがあるはずなのです。笑いながらたぶん、内心私は間違えないのにね、っていう優越感を持ってる人もいるかもですが。
ただ、私個人が失敗や間違いを見てある程度は自分も間違う可能性を意識するので目の前で間違った人を笑ったりなんてことをあまりしません。人間は間違える存在であるってのが頭の中にあるし他人の行為にもそれなりの理屈があるはずだってのを考えるので、他人の失敗からくるイレギュラーというか非日常をあまり面白がれないし笑えないです。奈良の件なんかだと東大寺から京都を目指した彼がたぶんなんで反対側の若草山を目指したかっていうと街中が一望できどちらが繁華街かわかるだろうという理屈のはずで、正直知らない町ならその選択は間違ってないと思ったし同じことするかも、と思っちまったんすけど。けど、エピソード的にはなんだか笑うところだったらしい。
で、何がいいたかったかというと、他人を面白がったりするのは、面白いと思ったその対象から考えつかなかったことや非日常を見いだしたりするから面白いのでは?なんておもうんすよ。東大寺から京都へ行くのに若草山へ登るという発想が「普通そんなことしないよ」という人ならばそのことが非日常で面白く感じるはずです。たぶん。私は笑えなかったんすけど。
面白いという言葉は時としてけっこう凶器だと思います。時として背後にあるであろう「普通とはちょっと違う」「非日常的」っていう差別的ニュアンスがなんとなくあるからです。そのことに気がついてから自分の目から見て「非日常的」「普通とちょっとちがう」であったとしても、表現物とかは別としてあまり面白いっていうことをいい難くなりました。