江ノ島御礼参り

第五波では東京は一時期連日五千人以上の新規感染者が出ていた時期があり、その頃「感染するかどうかは運次第」というのを見てしまってるのですが、運というのはあるかどうかあいまいなもので、あるかどうかあいまいないものですから「感染しなかったら運が良かった」「感染したら運が悪かった」というようにどこにでもくっつきやすく、非科学的かつ断定があるゆえの理屈ではない妙な力強さがあって、感染予防の行動が意味が無いようにも取れるのでその言説は厄介に感じていました。もちろん手洗い励行・マスクをしながら都心部への通勤を継続してて、個人的には「非科学的な運なんかに左右されてたまるかよ」と本気で思っていました。

でもなんですが。

実は人のこと云えるかというとあまり云えません。

第五波の直前の頃、接種券は来たもののワクチンの目途がたたず、もちろん海を見たかったというのもあるのですが江ノ島の弁財天へ行って神頼みをしています。その後、8月と9月の第一週にモデルナのワクチンを接種でき、感染もせずに第五波を切り抜けることが出来てます。切り抜けてみると正直なところ「これって江ノ島の弁財天のおかげなのだろうか」と思わないでもないです。「江ノ島の弁財天のおかげ」と考えてる時点でわたしは非科学的で、そして起きたことのわかりやすい理由を欲しがる弱いところがあります…って、わたしの弱いところなんてどうでもよくて。

海を見たかったというのもあるのですが宣言明けということもあって江ノ島へ(御礼参りに)行ってきました。

さすがに狭い辺津宮の参道のたこせんのお店の付近は混んでいたものの

島内は人は少なめ。行楽地の人出の取材なのかヘリが旋回していましたが、実際は意図した映像は撮れなかったのではないかな。

奥津宮への参道の途中の、断崖絶壁になっていてかつ海を眺めることが出来る俗に山ふたつとよばれるところで小休止してると、二人連れがそばで立ち止まった気配があってそのあと「火曜サスペンスに出て来そう」「船越英一郎が犯人を追い詰めておきながら、はやまるんじゃない、とかね」とだけ述べ、そのまま去ってます。聞くつもりはなかったのですが聞こえてしまい不意打ちでついツボに入ってしまい、「まだ(聞こえるかもしれないから)笑うなよ」と小声でいわれ、スマホを手にしばらく笑いを堪えるのに必死で、テキトーなものしか撮れてません。

多摩ではあまり見かけないこともあってつい撮ったのですが、(あとで調べた)南九州で咲くアメリデイゴがサムエル・コッキング苑(という植物園)のそばで咲いていて、やはり海辺のすぐのところは温かい風が直に来て(冬は北西の風が吹く関東であっても)なんとか南国の植物が生き延びれる環境なんだろうな、と。

秋のシラスの時期ということもあって、シラス丼を食べて藤沢にお金を落としてきてました。次来るときは御礼参りでなければ…とは思うものの、こればかりはわかりません。そもそも第六波、来てくれないほうがありがたいのですが、ムリかなあ。

「壽屋コピーライター開高健」を読んで

壽屋コピーライター開高健」(坪松博之・たる出版・2014)という本を読みました。壽屋というのはいまのサントリーで、小説家である開高健さんは壽屋=サントリーのコピーライターとしても活躍していました。本書は開高健さんの書いたと思われるトリスをはじめとするコピー、そして壽屋およびサントリーの宣伝の歴史などを的確かつ緻密に紹介しつつ、小説家開高健の著作やコピーライター開高健の作品やその周辺について言及した本です。開高さんの死後に開高作品を読みはじめた一読者からするとかなり興味深く、このような本を関係者が残しておいてくれたのはありがたいことであったりします…って私のことはどうでもよくて。書かれてる内容は多岐にわたり、語彙力がない上に低速回転のわたしの頭では「コピーライターとしての開高さんと作家としての開高さんは切り離せないのだな」「すごい人物だったのだな」という月並みな感想しかでてこないのでぜひ本書をお読みいただきたいのですが、それで終わらせてしまうのはもったいないので、隙間から握った砂が零れ落ちてしまう怖さがあるのですけどキモかもしれないと思った点を3つほど触れておきたいと思います。

ひとつはコピーライターの経験が作家の文体に与えた影響です。

作品の中には二人にの開高健が居るように思われ、表現しがたい事物に挑み漢文調の言葉を駆使し、時には対立する言葉を用いて完全なる表現を求める。いわば「何をどう書くか」、という開高健と、最後の一文に見られるような平易な言葉遣いと洗練にこだわる、「どう伝わるか」という開高健である。ひとつの頂を目指しあらゆる言葉を携えてのぼりつめようとする開高健と、表現のすそ野を目指して注意深く一歩一歩下山する開高健である(P136)

引用した部分はまるで開高さんが憑依したような表現なのですが、たいした語彙力があるわけでもない・文学なんてちっともわかっていない私が開高作品にのめりこめたのは確実に坪松さんの指摘する「どう書くか」「どう伝わるか」を考え抜いた開高さんの文章だからこそで、ひどく腑に落ちています。そしてその表現アプローチは広告制作の中で習得したのではないか、と。特にリズム感を挙げ、実例として夏の闇の一文を挙げ

コピーのように改行を加えると洗練さが強さを増幅してる、とも述べています。

もうひとつは広告でも途中から内面を露出するようになった(P203)という指摘です。加えて書くと作家としての開高健にコピーライターとしての開高健が引き寄せられてる時代があった、といえばいいかもしれません。坪松さんは文学とコピーライティングをすべてきれいに重ね合わせることはできないと留保をつけつつ

「内面から外界へ、そして再び内面へと向かい、その葛藤から一つの表現スタイルに到達するという同じ軌跡を描いてるように感じられる」(P204 )

とも指摘します。小説としては「裸の王様」などを経て内面に向かう「なまけもの」という作品を書いたあとベトナムに向かい「ベトナム戦記」「輝ける闇」を書きあげ、さらに内面に向かう「夏の闇」と連なることを紹介していますが、妙に腑に落ちています。広告も初期は季節に沿ったものなどやウイスキーを買ってしまう心情を描いたものなどがあるのですが途中から変化し内面をつぶやくような文体になります。有名な「人間らしくやりたいナ」というつぶやく系統のトリスウイスキーのコピーがあって、本書ではじめて知ったのですがそれは作家として海外へ行きアウシュビッツ等を見学した後に出てきたもので、そう考えると作家が葛藤した上で内面を露出した・紡ぎだした言葉にも思え、表面上の語句はともかく実質は叫び(もしくは絶望を経たうえでの嘆息)に近い様相を帯びてるような気がしてきます。

そしていちばん重要かもしれないのはコピーや小説における対立表現です。「飽満の種子」では7種の対立表現がひたすら出てきますし、小説の名前にも「輝ける闇」というのがあります。壮年期のサントリーオールドなどのコピーでも対立表現があることを本書を読んで知りました。対立表現を並べることで事象の輪郭を浮かび上がらせることができると指摘したうえで

真実とはいったい何なのか。作家として、表現者として目に見えている事象について常に懐疑の気持ちを抱き続けてきた。なにが正しいのか、何が本当のことなのか。対立する言葉による表現は、なんとかしてその真実にたどり着こうとする開高が見出した表現スタイルであり、開高文学の本質である。(P304)

と坪松さんは喝破しています。おおむね同意で全く異論はないのですが、本書はさらに踏み込んでサントリーウイスキーは対立表現の宝庫であること、対立する言葉をウイスキーの広告に持ち込んだのは開高さん(と開高さんの本を読みこんだ東条さんという映像作家)であることに触れています(P310)。開高さんが書いたわけではないものの「なにも足さない なにも引かない」という対立表現のコピーは多くの人が知るところで、そういう点からしても「後世に影響を与えた人だったのだな…」と目からウロコでした。

さて、本書はコピーライターおよび小説家としての開高健について書かれていますが、最後の一章はそれまでと趣が異なり開高さんの死と死の前後のこと、死後に語られた評論、そして最後に俳号を持つ(開高さんを壽屋に引き込んだ)佐治敬三さんの憔悴ぶりと開高さん亡き後の俳句への傾倒が描かれています。文学も広告も俳句も門外漢でわかりませんが言葉というものの重要さをその章で間接的に浮かび上がらせてる気がしています。最後の章が無かったら本書は単なる資料的価値のあるもので終わっていたと思いますが、最後の章が有ることで単なる資料的価値のある書物にとどまらぬものになってるはずです。

最後にくだらないことを。

開高さんは言葉の職人ゆえになんとか言葉で表現しようと・描き尽くそうとしたゆえに、例えば「言語を絶する」というような言葉を使わずにいて周囲にも注意し、なので料理やワイン、ミステリや映画の感想を述べるときに周囲は極めて強い緊張を強いられた(P119)と書いてありました。妙に印象に残って一週間くらい文字にしないまでも舌で感じたことをなるべく言語化しようと試みたのですが、挫折しています。作家志望やコピーライター志望ではないからどだい無理な挑戦ではあったのですが・比較してはいけないと承知してますが、体感としてもやはりすごい人だったのだな、と。

耳栓のこと

水曜どうでしょうという番組を知ったのはここ数年です。その中にサイコロの旅というシリーズがあって、あらかじめ6か所ほど事前に行き先を決めておきそれぞれ数字を割り振り、サイコロの目の出たところへ行きながら札幌へ帰るチャレンジをする、という企画でした。ひとつの旅の中で夜行のバスを連日乗らざるを得ず鈴井貴之さんと大泉洋さんが眠れないことを訴えていた回があった記憶があります。連日連夜バスに揺られるという経験は幸か不幸か無いものの、夜行のバスは奈良交通やJRバスなどで何度か利用してるのでキツさ想像はでき、しかし他人の不幸というのは安全地帯から安心して眺められる蜜の味かもしれずつい笑ってしまっています…って、書かなくてもよさそうなおのれのブラックさは横に置いておくとして。

はてな今週のお題の「眠れないときにすること」を引っ張ります。

いまはもう無いのですが以前は深夜に東京を出発する大垣行きの夜行列車があって、大学進学が決まった高校3年の冬の終わりに同級生と私的な修学旅行の意味を含めその大垣行きに乗って京都へ行っています。そのときに耳栓を買うことをすすめられてて耳栓持参で、小田原あたりまでは起きていた記憶があるのですが耳栓をした後は名古屋の手前まで眠りに落ちていました。以降、夜行列車や夜行バスに乗るときには耳栓を用意していて「車内で眠れない」という事態は回避しています。鈴井さんと大泉さんが「サイコロの旅」で耳栓を用意していたかは正直わからないのですが、もし連日連夜耳栓なしであったなら(エンジン音等を考えると)そのキツさは想像を絶します。

都内で連日5千人の新規感染者が出ていた頃、マスクや感染予防の手洗い等はちゃんとしてるものの都心部への通勤を続けてた非リモート勢なので自宅療養や病院等のお世話になる可能性を考え少しだけあれこれ用意していました。いまから振り返るとその弱気は噴飯ものですがそれはともかく冷凍食品や缶詰を積み増したりとかしたほかに、死んだ両親が病院のお世話になっていた時期があって病院は決して静かなところではないのを理解してるので「耳栓捨ててなかったよな」と探したら以前使っていたのが出てきています。今日で緊急事態宣言は終わる第五波ではその探し出した耳栓を使わずに済んでいて(冷食はちょっとづつ食べています)、来月か来年かは知らぬものの次来るかもしれない次の波でもできることなら使わずに済ませたいところです。来年のことを云えば鬼が笑うといいますが、来月でも来年でも用意した耳栓をしておけば少なくとも鬼の笑いも聞こえない可能性もあるかな、と。

ストローの想定外使用

コンタクトレンズをはじめて装用したのが30年以上前で、そのとき念入りに手洗いをすることを繰り返し言われてます。そのせいか去春以降の手洗いは苦になりませんし、幸いなことに感染性の角膜炎等にはあまり罹患したことはありません。痛いと知ってからはかなり慎重になっていて、洗面台も清潔な状態をなるべく保持するようにしているつもりです。B型はズボラですが…ってかくと語弊があるのでちゃんと書くと私はわりとズボラを自覚しつつも、そこらへんはかなり意識していました。痛さへの恐怖は人を動かします…って、なんだか余計な一言を書いている気が。

月曜の朝にコンタクトレンズを装用したとき、洗面台からの排水がちょっと遅くなってるのに気がつきました。いつ洗面台の排水口にクリーナーを入れたか記憶があいまいで、なので「なんとかしなくちゃ」と考えて買い物のメモに追加し、メモを忘れることなくちゃんと買ってきています。

用法に従って洗面台の排水口に液を垂らして放置し、水で洗い流そうとしたらむしろ洗面台に水はたまる一方で、その上(汚い話で恐縮なのですが)排水口から出てきた黒いヘドロ状っぽいものが湧きだしてきちまいました。「え、なに、なにが起きた」とたじろぎつつも、その状況を緊張感をもって注視したところで事態が変わるわけでもないのは百も承知です。中でなにかが詰まってると仮定して突っつけばなんとかなるのではないかと思い至り、まず割り箸が思い浮かんだのですが突っついて割り箸が折れたら悲劇かなと考え、次善の策としてやわらかそうなものとして台所を物色してたらなぜか未使用のストローが複数あったのでそれを1本使ってまず突っついてみました。結果、さらに黒いヘドロ状のものがいくらか出て来ちまったものの、数秒後に「ごぼっ」という音がしたあと続けて「ごぼぼっ」という音ともに溜まっていた水と黒いヘドロ状のものがほぼ吸い込まれてゆきました。それを見届けたあと、キレイにしながら・後処理しながら「びっくりした」と時間差で口にしています。なんだろ、言語化までに時間かかかるというか、時間差で感想がでることってないっすかね。ないかもしれませんが。

眼科領域の感染症の怖さから洗面台について清潔な状態を保持するように意識はしていたものの、それは目に見える範囲だけであったようで、見えない部分というか定期的に排水口にクリーナーを入れるようにしようと痛感し、おのれのズボラさをちょっと反省しています。

なぜ未使用のストローがあったのか・それを仕舞っていたのかは我ながら謎なのですが、実はまだ5本くらいあります。定期的に排水口にクリーナーを入れれば不必要なものなのですが、ストローを見るたびに今回の想定外使用を思い出しそうな気がするので、自戒を込めてストローはしばらく捨てないつもりです。

天邪鬼な睡魔

ラノベだマンガだと最近退行が進んでいるのでは?といわれるとキツイのだけど、ホリミヤ(HERO原作・萩原ダイスケ画・スクエアエニックス)というマンガを読んでいて、ある冬の日の夕べに主人公である堀さんと宮村くんがこたつに入ってしまったがために、ひと休みしたら宿題をしようと思っても14分後には撃沈しさらに2時間以上熟睡してしまうエピソードにありました(ホリミヤ09pege60)。東京は雪は降らぬものの晩秋から晩冬にかけて北西からの冷たい風が吹くので通勤に使う地下鉄も暖房をガンガンに効かします。退勤時に運よく竹橋や九段下で座れると座席の下の暖房のおかげで気がつくとウトウトしてることがわりと多く、つまり私は足を温めると眠くなるので上記の堀さんと宮村くんの熟睡は身に覚えがあります。

足のあたりがあたたかいと眠くなるという地下鉄車内の体験から足が大事と考えて数年前から秋から冬の終わりにかけて靴下を履いて寝るようになってます。ただし一日履いた靴下そのままというわけにはいかず、つまり靴下の洗濯量が倍に増え、ピンチハンガーに干されたいくつもの靴下を眺めながら「天日干しされた昆布の産地ってこんな感じになるのかも…」という光景が乾燥機能付き洗濯機にするまで天候が良くないときはどうしても出現していました。その代わり以前は一年に一回くらいあった眠れない夜というのはここ数年、経験していません。もっともモデルナ2回目の接種当日の夜だけは別で、接種した部位を下にしてしまうと痛く、まったく眠れなかったわけではないものの細切れの睡眠で朝を迎えています(翌朝発熱を確認してから解熱鎮痛剤を飲んで昼寝しています)。

はてな今週のお題が「眠れないときにすること」なのですが、個人的経験としては眠れないときに本を読んでも身に入らず音楽を聴いてもダメでした。いまから思えば「足が冷えないようにしろ」と過去のおのれにアドバイスしたいところですが、他人のアドバイスを受け入れるような柔軟さがB型故にないので…って血液型のせいにしてはいけない気がするのでちゃんと書くと私は素直ではないので、たぶん聞く耳持たなかったと思います。話をもとに戻すと、眠れぬ時になにをしていたかというと、覚えてる限りではむしろ眠ろうとしないでニンジンとかタマネギとか特定の野菜から作る料理のことなどを(B型の脳内なのでとりとめのないレベルで)想起して、いつの間にか眠っていたはずです。武満徹さんが病室で南瓜であるとかのレシピを考えていたのをまとめた「キャロティンの祭典」という(睡眠とは全く関係ない)本があってそれを読んでて真似てのことで、もちろんメモなんてしていませんから翌朝には入眠できたこととニンジンとかタマネギとかのことを考えていた記憶以外はきれいさっぱり忘れてます。眠ろうと考えなかったのが功を奏したのかもしれませんが、理屈は専門家ではないからわかりません。

地下鉄の車内も、ニンジンとかタマネギとかの料理を考えてるときも、そしてこたつに入った堀さんと宮村くんもそうなのですが、眠ろうと意識しないときのほうが睡魔が襲うことがあるわけですが、睡魔がこの世に存在するとは思っていませんがもし仮に居たとしたら、寒いときに出てこないので寒がりで、かつ、すごく天邪鬼なイヤなヤツではあるまいか、と考えちまうのですが。

「ついスマホに頼ってしまう人のための日本語入門」を読んで(もしくは辞書のこと)

「ついスマホに頼ってしまう人のための日本語入門」(堀田あけみ・村井宏栄・ナカニシヤ出版・2021)という本を最近買いました。念のため書いておくとスマホは持っていますがメール機能と通話とLINEと運行情報以外はあまり使いこなせてませんから、おそらく題名が想定する層ではありません。だのになぜ手に取ったかといえば大学の先生でもある著者の著作を以前読んでいたからです…ってそんなことはどうでもよくて。本書は文章を書いたり創作の授業も担当してる小説を書く心理学者が書いたもので、書かれてる内容は大まかに分けて「辞書を引く」「語彙を増やす」「敬語に強くなる」で、「正しく伝える」「豊かに語る」ことの一助になれば、という点から書かれています。

「辞書を引く」というところでは少しショッキングな記述があります。「延々と」を「永遠と」と書く大学生が増え、指摘すると普通に生きていたら「延々と」なんてつかわないと学生はなかなか納得せず、百歩譲って辞書を引けと指摘すると教え子が

「引きようがありません、先生。間違ってる可能性を微塵も疑っていませんから」

と述べた体験(を基にしたフィクション)が描かれています(P8)。ことばに対して興味がなく、さらに自分の正しさを疑わないゆえに辞書を引かないので「面倒がらずに辞書を引け」という言葉はちっとも届かず、辞書を「わからない言葉を知るため」ではなく「日常的でないことの確認のため」にしなさいというべきだったのか、と自省されてるのですが、続けて「わからないことは質問して解決して」と問うても単位を落とす学生が居てその学生が云う「わかっているつもりだった」「どこがわからないかわからなかった」という返答から何がわからないかを気付くにもセンスが必要であって自分の知識は完全ではないという前提を崩したところで「わからない」がわからないことに変わりがないので積極的に辞書に向かうことにはならないのではないか、とも述べています(P10)。加えて発達学習心理学専攻で著者の以前の研究で文章を産出する際に「何を書くか」と「どう書くか」のどちらが意識されてるかという研究では「何を書くか」が優位で(P11)あったことも紹介しつつ、「どう書くか」に興味が無いと、産出する文章に限界が出てくることも指摘しています。

冒頭から25ページあたりまで読むと本を書いた目的や動機が濃厚に理解できてきます。詳細はお読みいただくとして、題名にあるような「ついスマホに頼ってしまう人」ではなくても、現在の書きことば・話しことばの状況の一例を知るうえで興味深い本ではあります。そして単純に「今どきの学生は…」とくくれない書き方にもなっています。たとえば「ややこしい」や「どうでもいい」の対義語は?という酸いも甘いも噛分けた大人でも即答できなさそうな問いかけもあったりします。詳細はやはり本書をお読みいただくとして、国語の微妙な複雑さと興味深さもあわせて知ることが出来ます。

「辞書を引く」に話を戻すとと辞書そのものについても経験を踏まえて書かれてます。電子辞書について複数の辞典が入っているので同じ言葉の引き比べができることをメリットとして挙げていました。同じ言葉の引き比べをしたことがなかったので目からウロコで(たとえば英和はジーニアス漢和は三省堂の1冊しか持っていない)、いままで紙の辞書一択だったのでちょっと心が揺らいでいます。もっとも紙の辞書についても、線が引けるなど(私はメモを挟むことがある)などの利点を挙げています。些細なことなのですが紙の辞書は目的の言葉にたどり着くまでに別の単語を目にせざるを得ません。そのことによって「見たことのある単語」が増えているのですが、本書にはそれについてもちらっと触れられています。私は読書を自称できるほどしていませんがこの「見たことのある単語」が本を読むうえで血肉になってる意識があります。なので揺らぎつつも紙の辞書を引くことは止めそうにないのですが、っておのれのことはどうでもよくて。

さて、読み終えたいま本からはしおりがわりのレシートが「辞書を引く」以外の部分も含め何枚も挟んであって語りたいところがいくつもあるのですがそれは止めておくとして

出版のご提案を頂いた直後、新型コロナウイルスの影響が強く世界を覆いました。直接会えない、面と向かって話せない代わりに、メールやそれに添付するワードファイルのやりとりは格段に増えたように感じています。コミュニケーションにおいて、表情・身ぶり・手ぶりという要素が捨象され、伝達された言葉そのものに、より神経を注がなければならない状況です。文章に求められる役割は、どうやらますます大きくなっていきそうです。(P150)

というあとがきに、一番はっとさせられています。学生ではありませんし、創作こそしませんが・文章で喰おうなどとはちっとも考えてないのですが、いままでと異なる状況がしばらく続く上で齟齬をきたすことのないよう文章を書くことについて神経を注がなければならぬと改めて気がつけただけ、ラッキーだったのかもしれなかったり。

大磯城山公園へ

不要不急の外出を控えろといわれて考えてしまうのがなにが不要不急にあたるかで、両親が眠る墓地の清掃は不要不急に当たるかどうかはわかりません。「なにしに来た」と怒られたら帰京するつもりで月曜日に県境を跨いでいて、怒られなかったので墓参のあとにメシを食いに海辺のほうまで足を伸ばしています。

さて関東平野の南西に大磯という街があります。

大磯には城山公園という県立公園があって、公園の展望台から北西を眺めると大磯は丘陵地帯にあることが実感できます。関東平野は冬に北西からの風がずっと吹くのですが(地域によってはからっ風とかベットウ風とかいう)、丘陵の下部は丘陵が風を遮るのでそれほど北西の風の影響を受けません。なので大磯は避寒の地として別荘がいくつも建てられていました。城山公園ももともとは北半分が三井家、南半分は故・吉田茂元首相の別荘地で、北半分の展望台のあるあたり、眺望の良い場所には三井家時代には建物があったようで

海が見える別荘は魅惑的ですが、丘の上だと良い運動になるけどいろいろ大変そうだなあ、と考えちまうのが貧乏人の発想です。もちろん自動車でアプローチしてたのかもしれぬものの、働く人たちはちょっと大変だったのではないか、とか考えちまいました。

南半分の吉田邸跡は丘の南西麓に位置します。門から入ると目立ついちばん奥にヤシが植わっています。そのヤシを目標に歩いてゆくと左手に

吉田邸が姿を現します。いったん焼け落ちたものの建物が復元されていて、しかし残念ながら緊急事態宣言中なので内部の見学はNGです。内部からはどんな眺めなのかはわかりませんが、眺望よりも避寒を重視したのかなあ、と。というのは

吉田邸は和風というか数寄屋風建築にサンルームが接続されててちょっと変わった建物なのです。でも傍から見るとあまり違和感がありません。黄土色と灰色の色使いもさることながら、違和感からいったらヤシの方が上なので、おそらくそこらへん来訪者の視線の移動を含めて計算された上でのことかもしれなかったり。

庭園の最南端には松林があり散歩道になっています。クロマツがまっすぐではないのでけっこう海風があると推測できます。

松林の下には竹林があります(クロマツを含めて飛砂対策を兼ねてるのかも)。じゃあ梅はあるのかと探すと池のほとりに植わっていて、松竹梅全部揃えてありました。ヤシがあるので第一印象は日本庭園ぽくなかったものの、歩き回るとやはり日本庭園なんだな、と思える不思議な空間です。

現地へ行くまでは知らなかったのですが、吉田茂元首相はバラの栽培を趣味としていて、なのでバラ園も一部残されています。残念ながらいまはシーズンオフなのでつる性のものが一部咲いているのみでした。

最後に浜へ降りてます。

大きな声では言えませんが大磯はメジャな観光地ではありません。なので人は少なめ。とりあえず現場からは以上です。