「今日より明日が良くはならない」と思える状態で

何度も書いていることで、答えの出ないことを改めて書きます。

前橋の古本屋で秋里和国さんの「TOMOI」というマンガを買っています。高崎線の中で読んでとんでもないものを読んだぞ感がありました。日本人医師の話で、どちからというと性に奔放な相手や、配偶者のある相手とのラブストーリーがあったりします。そのなかでリヒャルトさんという登場人物が出てきます。ユーモアのある人なのですが、不特定多数と性的に接触するチャンスのある場所へでかけます。主人公はリヒャルトさんを探しに行くのですけど、詳細はやはり読んでいただくしかないのですが、リヒャルトさんの行動がいまいち理解できていたかというと怪しいです。ついでに書いておくと舞台は80年代のアメリカでAIDSの患者が出はじめてリヒャルトさんはそれを知る立場にいて、いまほど同性愛に寛容な社会とは云い切れなかった頃です。だいぶ経ってから

「今日より明日が良くはならないと思った時、人は目の前の楽しみを優先してしまうのでは」

と思うようになっています。もちろん正解はわかりません。勝手に私がそう解釈してるだけの話です。

話はいつものように素っ飛ぶのですが。

先月末に駅に向かう通勤途上、時間貸コインパーキングにピザの箱と缶チューハイの空き缶が放置してありました。車はありません。置いてった人達が飲酒運転してどこかへ行ったか、もしくは、数人でここで酒盛りをしていたと考えられます。私が住んでいる東京都の多摩地区は飲食店での酒の提供はできないことになっていますから、その代替行為なんだろな、と推測できます。複数人での酒を伴う飲食が感染リスクが高くなるのはおそらく誰もが知るところで、その観点からそれらの行為を批難することは簡単なのですが「今日より明日が良くはならないと思った時、人は目の前の楽しみを優先してしまうのでは」というのを理解できてしまうと、理屈とは別のところで「わからないでもないな」と思うようになっています。これ、おそらく危険な考えかもしれません。

でもなんですが。

「今日より明日が良くはならないと思った時」に「目の前の楽しみを封印して耐えろ」とだけいうのは有効なんだろうか、という疑問がどうしても脳内から離れないのです。

話はさらに横に素っ飛びます。

私の住んでいる多摩地区から山梨県経由で静岡にかけて五輪開催期間に自転車レースが2日間行われます。大國魂神社のあるあたりはケヤキ並木がありますがそれ以外は多摩では知ってる範囲では並木道ではないところがけっこうあって、その状況で真夏の炎天下で自転車レースは狂気の沙汰だと思ってるのですがそれは横に置いておくとして、自転車レースの間は二時間くらい道路が封鎖されもしくは近隣に通行規制がかかる予定で、そのチラシが配られていました。住んでいる街も関係してくるのですけど、時節柄せめて(消防と)救急車だけは優先して欲しいものの、その記載はありません。チラシを眺めながら「これ、ケガも病気にもなれないな」とか文字にすればあたりまえのことを考えてたのですが、たぶんこれけっこうな割合で

「今日より明日が良くはならない」

と思える案件です。

私は五輪に協力するためではなく、いま抱えてる仕事の都合で7月半ばまでぶっ倒れるわけにはいかないので感染リスクの高い行動は(なるべく)しないつもりですが、「今日より明日が良くはならない」のがけっこうな割合で確実とわかってて、それを「耐えて切り抜けなければならない」しか選択肢はない、というのは、やはりキツイなあ、と。

ほんとにくだらぬことを書くと、昨日、バニラアイスに掛けるための芋焼酎を買いました。たぶん美味しいのではないか、と推測して「耐えて切り抜けなければならない」日々になったらほかの焼酎と比較しつつまだ知らぬ味覚の開発と実験をするつもりです。他にもはてなでつながりのある人が紹介してる本などを参考に買っておき「耐えて切り抜けなければならない」日々を余所見しながらやり過ごしたいところ。

世の中そんなに都合よくはできていない

いつもはヨーカドーで売ってるようなどってことない食パンなのですがたまに大丸や神戸屋などで値段がちょっと高めの良いパンを買い、もしくはパンは安くてもジャムをたまにお値段高めのにして、それらを忙しい朝に(処理しなければならぬことを想起して陰陰滅滅になりそうなのを封印して)「うまいなあ」と舌で感じながら喰うわけですが、食というか味覚は自分にとってかなり重要なところがあります。

そんなふうにいくらか食い意地がはってるほうなので、バカにされそうなことを全開でいうと新型コロナの報道を眺めてて後遺症に味覚障害があるというのを聞いてからは「なるべくかかりたくないな」と強く思うようになっています。手洗い励行はそのためで、食い意地は感染症予防のエンジンです、って書かなくてもいいようなことを書いてる気がするので話を変えると、当然、チャンスがあればワクチンも、と思っていました。

帰宅して郵便受けの中を確認すると、住んでいる自治体からコロナワクチンの接種券が郵送されているのに気がつき、(自治体の接種は高齢者向けも医療従事者向けも終わっていなくて職域も東京地区は後回しなので)いつもならシャワーを優先するのですが着替えずにともかくパソコンを立ち上げ、予約が埋まってないと報道で云ってた気がした大手町の自衛隊運営の接種センターのHPを閲覧したのですが、予約枠は既に埋まっていました。世の中そんなに都合よくはできていない・世の中そんなにすんなりはうまくいかないようで。

手洗い励行はそのままに、気長に待ちます。

疲労時の思考

社が違うといえばそれまでなのだけど地下鉄とJRの乗り換え駅で乗り換えようとすると、ちょっとくらい待ってくれたっていいじゃないか、というタイミングでもあんまり関係なくドアを閉まってしまうことがあります。実は昨夜がそうでした。数分待てば次が来るとは云え、偶然の間の悪さにイラっとしてしまうことがあります。加えて昨夜は退勤時に雨がひどく、なので最寄駅から住んでいるところの近くの停留所までバスを利用しようとしたのですが、改札からバス停に向かう途中に横断歩道があってそこの赤信号で引っかかり、赤信号を待ってる途中でバスが行ってしまう、ということがありました。ちょっとくらい待ってくれたっていいじゃないか、とやはり思ったのですが、向こうとてダイヤがあるでしょうからそれを曲げろというのは無茶な要求です。理屈はこちらにないしすっごく些細なことなのですがすっごく些細なことでもイラっとしてしまう性格であることを昨晩再確認しました。だいたいそういうときは経験則で疲れてるときが多いので、「おれ疲れてるのかもな」とその場でおのれを納得させています。

帰宅して洗濯機をまわして洗濯物を部屋干ししていると、肌着に穴が開いてるのを確認して捨てています。ヨレヨレじゃないのにどうして?と思っても起きたことはどうしようもありません。鬼のパンツは強いっていう歌があるくらいだからいつかヒョウ柄のパンツでも買おうかなとか考え、しかしなぜ鬼のパンツが強いのかという疑問が芽生えた時点で、完全にくだらない方向に思考が転がってるのでああやはり疲れてるんだな、と改めて自覚し、はやめに就寝しています。

疲れてるときほど理屈関係なく些細なことでイラついたり思考がとっちらかったりするのですが、今日の夜になって昨日が一粒万倍日でほんとは縁起の良い日だったことを聞いて、さすがに「どこがだよ」と内心思いました。占いとか(コロナ禍以降特に)信じないほうではあるのですが疲労時って「占いとか縁起とかくだらねー」とより反発したくなることってないっすかね。ないかもですが。疲労があんまり抜けなくて余裕がないせいかも。

宣言が開けたら疲労回復を兼ねて県境を跨いでどこかへ行きたいところですが、ムリかもなあ…っていつのまにか悲観的になってて、知らず知らずに悲観的になるのも疲労時の思考っていう自覚は経験則からあります。でもなんだかそういう悲観的なことは極めて非科学的なのですが当たってしまいそうな気が。

鳥頭

博多華丸大吉師匠の漫才の中で、中洲産業大学卒のお父さんが「昨日のお昼ご飯なんやったかな」と思い出せず、人の記憶の不確かさについてネタの本筋ではないのだけど語るシーンがあります。個人的にはさすがに昨日のお昼は覚えてるのですが、10日前の夕飯あたりになるとちょっと怪しくなります。ごはんに限らずどってことない雑談で俳優さんの名前がすぐには思い出せなかった経験もあります。もしかしたら年齢もあるかもしれないのですが、「あれなんやったかな」ということが増えた気がしないでもないです。

近所に都立の公園があるのですが、都の施設だけあって五輪開催に向けてマスコットが設置してあります。雨が降る前にその公園に居たのですがそのマスコットの前で、ふと

「これ、名前なんだっけ」

と訊かれて

「…ス、スノーレッツ?」

とたぶん違うだろう(皿を貰ったので覚えてる長野五輪のときの)名前が咄嗟に出てきたのですが、正直、覚えていませんでした。さかのぼってどうする、といいながらスマホで検索したのを見せてもらって「ああたしかにそんな名前聞いたかもしれない」とは思ったものの、なんだか明日には忘れてしまいそうな気が(これを書いてる時点で数時間が経過してるのですが、ピンクのほうの名前がすでに怪しい)。

もっとも何年経っても去春からこちらのコロナ禍は忘れそうにはないのですけども。

伝達効率のよい言葉・伝達効率のよくない言葉

なんべんも書いてることなのですが、私ははてなハイクというSNSのようなものを使っていたときに、そこに書いてある他の人の文章が同じ日本語で書かれつつもちっともわからなかったことがあります。そこらへんから言語による意思疎通について、ボールペンの先っちょでビー玉を転がすようなあちこちに転がる・答えのないことを考えるようになっています。もちろん答えは持ち合わせていません。ただ、ひとつだけわかってることがあって、書くほうと読む方が・話すほうと聞く方が、同質性が無かったら伝わらないのではないかと(これもなんべんか書いているのですが)考えています。博多華丸大吉師匠の漫才で博多のお父さん役の華丸さんが「一番でも内川、二番でも今宮」と数え歌を歌いだす場面に出くわして、ホークスの背番号の知識があれば別としてそうでなければ博多弁でいうところの「いっちょんわからん(≒まったくわからない)」状態に陥るわけで、知識などの同質性がないと意思疎通が困難になるのではないかと気がついて、その漫才では大吉先生が諫めるのですが大吉先生のような人がつねにいるわけではなく人は容易にそういう状態に陥ってしまうのではないかと想像していますって私の問題意識の話はどうでもよくて。

話はいつものように素っ飛びます。

今朝の毎日新聞の書評欄、渡邊十絲子さんという詩人の方が手洗いに関する詩集(「新しい手洗いのために」TOLTA著・素粒社)を担当していて、私はその詩集は読んではないので本来なら書くべきではないかもしれないのですけど、その書評のなかで「伝達効率の良い言葉は人間の心の柔らかい部分には届かない」「外出自粛などの言葉は予め同じ考えを持つ人にしか伝わらない」と書いていて、妙に腑に落ちています。感染症が拡大してる状況下で感染拡大を防ぐための取り組みを誰もが判るように効率的に伝えるためにどんなに平易な言葉で語ったとしても、上に書いたホークスの背番号と同じで同質性≒感染症に対する知識や恐怖が共有されてなければ別として伝わらないかもしれないはずで、個人的によくわかる問題提起なのです。もっとも私はその問題の妥当な解を持たないのですが。

ちょっとだけ横にズレます。

文中、渡邊さんは現在の状況を踏まえ、「世の中は実用的な言葉だけで出来ているわけではなく我々のすべて行為が目的や成果を問われてるわけではない」と述べつつ「わたしの頭にふだんから去来しているのは、役に立つとは思えない雑念ばかりだが」としたうえで「そういう雑念がわたしを作りあげている」とも書かれてて雑念ばかりの私は首がもげるほど同意なのですがその上で「目的や達成率を問われる公的な側面はわたしの本質ではない」「わたしだけではなくみんなそうなのではないか」と投げかけます。ここらへん、江ノ島なめろうのどんぶりを喰いに行けないことを含め自治体の呼びかけに応じてなるべく私用では県境を跨がないようにしつつ鬱屈が溜まってゆく理由が・各種指数を眺めながら私個人の責任とは思えないけど感染者の多い東京の都民であることを理由としてなんだか指弾されてるような暗い気分になってた理由が、理由になってないかもしれないものの感覚的にすこし理解できた気がしました。この部分を読めただけでも良かったと思っています。

話をもとに戻します。

渡邊さんは「その方法は伝達からずいぶん遠いところにあるはずである」と書きます。「なんの役に立つかわからないような、回り道や袋小路ばかりの混とんとした言葉」に可能性があり、「謎を発見しそれを解きたいと思ったとき、人ははじめてそこに書かれた言葉に向き合うからだ」と書かれていて、多くはない読書経からしても(てめえは五臓六腑以外にいくつ腑を持ってるのだと怒られそうなのですが)腑に落ちています。感染症が拡がって生命や身の安全などを意識せざるを得ない状況下でいちばん有効なのは、実用的ではなく・伝達効率とはかけ離れた言葉ではないか、という問いかけは、その判断が正しいかどうかはもちろん私は判断できませんが、なんだか傾聴に値するような気がしてなりません。と同時に効率性を求められる社会においてそれはすごく皮肉な状況であるなあ、と感じています。

ここまで書いてきておいてなんですが、私は詩に理解の浅い無産無知識無教養労働者です。渡邊さんは「詩の言葉は無意識に対するレジスタンスなのだ」とも述べ「ひっかかりをつくりだし謎を提供すること。だから詩は理解したってなんにもならない。長持ちする謎を発見すればそれでいい」とも書かれています。それについてもシロウトなので妥当かどうかはまったくわかりません。でもなぜ詩というものが存在してるのか自分の言葉でのまだ言語化は難しいのですがうっすら理解できた気がしました。

おのれの抱えてる疑問に近いことが書いてあったせいか、度数の高い酒類をあおったあとのような感覚がありました。いまのコロナ禍はできれば避けて通りたかったものではあるのですが、今朝の書評欄はそんななかでのちょっとした零れ幸いであったり。

北海道サワークリーム

いまとなってはどうしてそんなふうに食べるようになったのかはわからないのですが、両親が生きていた頃からパンケーキにはサワークリームを載せていました。ロシアにはブリヌイといってクレープ状のものがあってそれにサワークリームやジャムを載せて食べるのですがそれにヒントを得たのかなあと思いつつ、残念ながら両親ともにロシア出身でもなければロシア留学の経験もありません。ただホテルやレストランによってはパンケーキを頼むときにサワークリームを添えてもらうように頼むとちゃんと添えてくれることがあるので、同朋はいないわけではないと思っています。

東京はここのところ妙に暑くなってきてて、朝にいくらか食欲が落ちてるのを自覚してるのでなんとかせねばと考えて

退勤後にサワークリームとリンゴジャムを買って帰ってきました。サワークリームを(パンケーキではなくても)トーストしたパンに塗ってたべることに私は全く抵抗がないので、明朝からサワークリームとリンゴジャムを塗る予定です。

酸いも甘いも嚙分けてた大人なので…という冗談は横に置いておくとして、「食欲を増進させる酸味は正義」だと思ってて、飽きたらマッシュポテトにも投入する算段なのですが、工夫して夏バテの第一波を乗り越えたいところ。

お題「これ買いました」

行動にブレーキをかけるもの

東京を無理に2つに分けるとすると東側の23区と西側の多摩に二分することができます。その多摩の23区寄りにあるのが井の頭公園です。

公園内には井の頭池というのがあって周囲には雑木林が拡がります。吉祥寺駅にも近くて(日曜にヨドバシ吉祥寺に用があるのを奇貨として散策していたのですけど)人が集まりやすいところで

なので三密回避のための立ち入り禁止ゾーンが設定されていたりします。

東京ローカルな話で恐縮ですが五輪のパブリックビューイング井の頭公園でやる話があったりします。もっとも池のほとりではなく日産の施設があったあたりで、しかし屋外には変わりなく真夏の炎天下の昼間にそんなことをやったらどう考えても熱中症などの危険性は高くなります。五輪の前に新型コロナの感染者数が極端に減ってくれれば別として、23区に比べて多摩は病院が多いわけではないので「そんなことやめてくれよ」感が(ただでさえ病院が少ない地域でもある)多摩の人間としてはあったりします。

いつものように話は横に素っ飛びます。

報道をみてると上記のように「ちょっとまってくれ」と思うことが増えてしまってて、なので逃避かもしれませんがたまに以前録画していたアニメなどを一人のときはその状況を奇貨として夜に雑事をしながら視聴することがあります。フィクションでも起承転結のしっかりしてるものは安心できるところがあるからです。そのなかでthe peggies

ねぇ私朝から思考回路が大渋滞です

the peggies「BABY!」

という歌詞のある曲が流れていました。歌詞カードなど見なくても頭の中に入ってる曲で、歌おうと思えば歌えます。

勤務先は4階で、エレベーターをつかいます。抱えていた仕事で関係者に承諾を取り付けることができてぬるっと前に進めることができて、気が緩んでいたところがあって、退勤時、エレベーター内で一人であったのを奇貨として、前夜聴いていた曲がつい、出て来ちまいました。

ねぇ私朝から思考回

といいかけたとろこで停止する気配があって、開扉しちまいまってます。そもそもそんな大声で歌ってるわけではないし・エレベータ内の防音はしっかりしてるはずだし・変な顔をされなかったから一人で歌ってたことはバレてなはずで大丈夫だとはおもうのですが、ちょっとだけ不安があって、なんだろ、さすがにやめよう、エレベータの中ではおりこうさんにしていようと痛感しました。

ちいさな不安は行動にブレーキをかけることってないっすかね。ないかもですが。