しおりのこと(もしくはこの時期の股間について)

高校時代の英語の先生だったと思うのだけど「テストで重要なところに線を引きなさいという問題は絶対でない、だから、教科書なり本なりで重要なところがあったら自分の言葉でノートにどういうことかをまとめなさい」ということを授業中よく云っていました。くたびれたおっさんになった今でもこの習慣は生きていて、本に線を引きませんし、本を読んでどこがどう引っかかったかということをなるべく自分の言葉でメモなどに書くようにしています。だから本を読むのが私はやたらと遅いです…って書いていてなんのアピールにもなりませんが、そんなことでも匿名だから告白できます。ビバ!匿名のインターネッツ!!…ってそんなことはどうでもよくて。本に線を引かない代わりによくやるのは引っかかったところに必要のないレシートを差し込んでおき、あとでそこを開いてそこらへんの紙にメモしたりします。ひっかかった数が多くなると文庫本からくたびれた一反木綿が複数生えてきてるような状況となります。

話はいつものように横に素っ飛ぶのですが。

最近読んでいた「美酒と黄昏」(小玉武幻戯書房・2017)は、作家の俳句や酒にまつわる俳句などを取り上げてそれについて解釈や解説や感想などが書かれていました。読んでいて度数の高いアルコールをちびりちびりと呑んでる感覚に陥るのですがそれは横に置いておくとして・実際読んでいただくとして、本の中に

桜桃の茎をしをりに文庫本 玩亭

という、丸谷才一さんの俳句が紹介されていました(P21)。玩亭は丸谷さんの俳号です。くだらないことで引っかかって恐縮なのですが、サクランボを食べながら丸谷先生は読書し、残った茎を私がレシートを挟むように文庫本に差し込んでいて、もしかしすると文庫本にサクランボの茎が何本もはみ出ていたのではあるまいか?と想像するとなんともいえない可笑しみがこみあげてきて、電車の中で吹き出すわけにはいかないので悶えていました。傍から見るとたぶん変なやつです。もちろんご本人がほんとにそのようにしていたのかはわかりませんが。でもって丸谷先生はサクランボの茎だったのかもしれませんが、昔の人は多くの場所に引っかかった場合、なにを挟んでいたのかなあ、と妙なことも気になりました。

もうひとつ、ほんとにくだらないのですがひっかかったのが

ばさばさと股間につかう扇かな

という句です。これも笑うに笑えず悶えてます。自分の所作ではないと丸谷先生が断ってて(P26)、著者である小玉さんは酒場か居酒屋での光景だったのだろうかと推測してるのですが、そんなことをするのかな?という気がしてなりませんでした。冷房をかけるほどではないけど湿気が多かったせいか風呂上りに扇風機の前で涼んでいる彼氏を眺めちまうと、いまは風呂上りに股間を扇をあおぎながら麦酒を楽しみにしてる姿を想像しちまいます。もちろん正解はわかりません。

丸谷さんの俳句をはじめて知ったのですが、想像力を掻き立てられる、なんとも不思議な句を詠む人であることをはじめて知りました。というか、正直俳句に詳しくありませんが、こういう俳句なら詠んでみたいと思わせられています。もちろん、そこまで達するには相当の距離がありそうですが。

いつもと違うコーヒー

小学生のころから粉のコーヒーを飲んでいました。たぶん以前にも書いたと思うのですが、インスタントコーヒーもコーヒー牛乳も「飲め、さもなくば殺す」と脅迫されない限りまず飲みません。缶コーヒーは無糖ブラックに限ります。豆から挽いてってのに憧れはしますが、買うのはほぼ粉にしたキリマンで、それを毎朝コーヒーマシンにセットしてて、つまり淹れるのはコーヒーマシン任せです。

先日、異性2人組の引っ越しを手伝ってて、事前に金銭のやりとりはナシという話だったものの、最後の最後に駄賃代わりに私はコーヒーを貰いました。コーヒーを飲むという断片的な情報を基に少ない資金を算段して買ってきたかと思うと断る気にもなれません。とはいうものの貰っておいてなんですがドリップ式のやつで、しかもキリマンではありません。なので話を持ってきた彼氏に押し付けようとしたのですが断られてしまってしばらくそのまま放置していたものの、眺めていても減るわけではありません。

とりあえず今朝、意を決してお湯を沸かして貰ったドリップ式のものを使いました。いままでコーヒーマシン任せだったのでほのかにめんどくさいのですが、封を開けたのがビターブレンドだったせいもあって苦味が効いたのが最初に舌にきてしばらくしてから酸味が来てけっこうはっきりした味で、「あーこれならいいかな」と納得できたので、何日かはいつもと違うコーヒーを楽しむつもりです。

他にライトブレンドとマイルドブレンド、それにアニバーサリーってのがあって、ライトはなんとなく想像つくのですがアニバーサリーだけはどんなものかがまったく想像つきません。おのれの財布を痛めて買ったわけではないので言い難いのですけどコーヒーのネーミングは味覚を想像できるものであって欲しいところがあります。

もっとも想像する楽しみがあるといえばそれまでで、気が重くなりがちなニュースが流れる中で、見知らぬいつもと違うコーヒーであれこれ別のことを考えたりするきっかけを貰えたのは確かで、もちろん余計なことは云わないつもりですが味の感想を含めて謝意をちゃんと伝えないと、とは思いました。

アテのこと4

読んだ本に影響受けて、ホウレンソウを茹でてちりめんじゃこと混ぜ酢を振って黒ビールを呑んでみたりとかしたことがある程度に軽薄です。

 いま読んでいる本(小玉武・「美酒と黄昏」・幻戯書房・2017)に、(恥ずかしながらその名前を知らなかったのだけど)古谷綱武さんの言葉としてウイスキーは醤油味が合うという記述(P172)があって感覚的に腑に落ちるものがあって、読んでいた本ではおでんや柿の種だったのですがおでんは時季外れだし柿の種じゃつまらないと考えて、買い置きしていたピーマンを思い付きで輪切りにしてサラダ油で炒めて醤油で味付けてコショウを少しだけ振り、それをウイスキーのアテにしたら(軽薄な行動な割に個人的にはけっこう)「イけた!」と思ったのですが、いや醤油味はどんな酒にもあうんじゃ?といわれてしまうと、ぐうの音も出ませんでした。たしかにおでんも柿の種はビールや日本酒でもイけます。醤油って奥が深いなあ、と至極当たり前の毒にも薬にもならない感想を今週末持ちました。

山本周五郎先生が牛乳のウイスキー割を好んで呑んでらしたこと(P54)も書かれてるのですが、軽薄なものの・読んだ本に影響を受けやすいものの、なんだかもったいない気がして真似していません。でもいつかはやろうと思ってるのですがアテについての記述は無く、仮に真似するとして牛乳のウイスキー割にあうアテはなんだろ、ウエハースとか?と考え込んでしまったのですが、さすがに醤油味はあいそうにない気が。

LGBT法案(とその反対意見に関しての)雑感

わたしは間違ってあほうがくぶを出たクチですが、法学部において立法事実という言葉を習うことがあります。どういうものかとテストで問われれば法律をつくらなければならない社会的な事実関係の存在ってかけば答案はオッケイかもしれません。法案や条例案を作るとき法律や条例が必要な状況を精査し検討を加えて法案・条例案にします。たとえばインスタント焼きそばの湯切りをするときにシンクに麺がだばあとなる事故を防ぐためのなんらかの方策を法律によって講じたいとき、なぜそれが必要かを裏付けるための事実を調査する必要があります。ふざけずにもっと真面目に書くと昭和の時代に工業地帯の選挙区を回っているときに支持者に指のない人が多数いることに気がついて調査して、結果として工作機械に安全装置をつける法案を書いた保守系の議員もいます。

多様性を認めて寛容な社会を作ってゆくため理解促進法案というのがあって今朝の29日付毎日朝刊を読む限り「性的指向および性自認を理由とする差別は許されない」という文言が入るようで、法案について「訴訟が多発する」と与党側の一部から意見が出てることも報じていました。訴訟になるような案件が潜在的にあることは反対派も理解してるのが興味深くて(雉が鳴いたところを聞いたことはありませんが)雉もなかずばなんとやらで、つまるところその意見は現況を是正しなくてはいけない立法事実があることを間接的に証明してしまってる気が。

ひとつだけ反対する側の意見としてひっかかったのは「差別の内容がわからない」というものです。条文原案では具体例として雇用や採用に関して均等な機会を与えることを保証することや(14条)や職場における性的指向又は性自認に係る言動に起因する問題に関する雇用管理上の措置(18条)、行政機関が事務を執行するにあたり個人の権利利益を侵害することとならないよう性的指向又は性自認に係る社会的障壁の除去の配慮義務(9条)などのほか、そもそものこととして国民の責務として差別解消が述べられているわけですが(4条)、おそらく当事者が感じているものは当事者以外にはわかりにくく「差別の内容ってなに?」といわれると非常に厄介で事例を列挙すればラクですが事例以外のものは良いというわけでもなく、また行動はともかくとして内心にまで差別解消を要求するのかとかの論点はあるわけで、いくらか傾聴に値するとは思いました。

くだらないことを書きます。

子供の時分に焼きそばの湯切りをしていたときにシンクに麺をだばあとこぼして以降、長いことカップの焼きそばは買っていませんでした。数年前、シンクに麺がこぼれ落ちないように工夫がなされてるの知って感動したのですが、あれが法律によるものなのかそうではなくてメーカーの工夫によるものなのか、残念ながら知りません。

なんだろ、人は改良することを知っているはずで二足歩行の動物ではないと思いたいので、時間がかかってもいいので法案がこぼれ落ちることがなくなんらかのかたちで成立すればよいなあ、と。道徳的に許されない、というレベル以外の話がなされてることにいくらか安堵をおぼえたのですが、道のりは長そうな気が。

通勤時の電車内で

おそらくどこも同じかと思いますがJRなどに乗ると感染症対策として窓が少し開けてあることが多いです。たまに厄介なのは、車両故障や人身事故などで案内放送がかかることがあるのですがその最中にトンネルに入ると窓が開いてますから正直何を言ってるかわからなくなってしまい、なんにも情報を得られなかったことがあります。別に誰が悪いわけではないはずなのだけど、結果だけみると時代劇口調で「ちょっとまってくだされ…」と云いたくなることがここのところ増えましたって、そんなことはどうでもよくて(よくないかもしれない)。

社によって差異はありますが「ここまで開けてください」というサインに従って窓が開いてることが多いのですけど、雨の日に「雨が強くなってきましたら雨が入りこまないように窓閉めにご協力ください」って車内放送がかかることがあります。それについて協力することはやぶさかではないんだけど「雨が入りこまないように窓を閉めろ」ってのが難しく、新型コロナは換気は重要と聞いてますし特に変異株のことを考えると完全に閉めるのはまずいんだろうな…と考えて、もちろん完全に閉めることもありますが横殴りの雨ではないときは完全には閉めず少しだけ残すことがあります。そういうときに自分が閉めたものをさらに誰かがすぐ開けたり閉めたり、ってない経験はいまのところありません。が、最適解がわかりにくいことってほんと難しい気が。

はてな今週のお題が「雨の日の過ごし方」なんすが、コロナ前と違っていまは雨の日は通勤時の電車の中で窓の外の雨の具合をよく観察するようになっています。

ポーアイにあるスパコンの富岳で「走行中の電車で換気しつつ雨が入りこまないような窓閉めの最適解は何センチか」というのを計算して欲しいところなんすけど、たぶんそんな計算のために開発されたわけではないはずで、性能の無駄遣いで富岳が意思を持つとしたらへそを曲げてしまいそうな気が。

続・背中の筋肉痛もどき

今朝の毎日新聞で西原さんが何気ない直球で激怒させるあるあるを書いていて、女性の場合

「やだこの服、ウエストがちょうどなのに胸がきつくて」

ということらしいのですが、筋トレをしてる人の場合

「やだこのズボン、ウエストはちょうどなのに大腿四頭筋が大きすぎて入らない」

ということのようで。知らない世界だったので「そうなのか…」と余計な知識を仕入れたのですが、胸はともかくとして、誰かを激怒させるつもりはありませんが・体重は増えてないしあまり筋トレもしていませんが(軽くストレッチをする回数が増えたせいかもしくは勤務先で自ら歩く距離が増えたせいか)大腿四頭筋がこの1年で発達しました。ウエストはダイジョウブでも太ももまわりがパツパツであるのに気がついて捨てたものがあります。でもって足腰だけは無駄に丈夫です。

日曜に引越しの手伝いの第2弾がありました。一緒に手伝うのがぎっくり腰経験者で(私はぎっくり腰の経験が無いので予兆が判らないので)いくらか不安だったのですが、恙なく終了しています。第1弾の時に足腰が丈夫だからこれくらい大丈夫だろうとタカをくくっていたら翌朝背中が筋肉痛というほどでもないけど違和感があって、以降この日のために検索して知ったバックエクステンションというのを気がついたときにやってはいたのですが(うつぶせのまま頭の後ろに両手を載せて状態を浮かせるおっさんをご想像ください)、さすがに一か月未満の短期では筋肉は育たなかったようで、今朝になってやはり背中にうっすらと違和感があります。あたりまえのことをかくと、足腰だけ丈夫ではダメでこういうの付け焼き刃ではなくて日頃から全身を鍛えてないとマズいんだな、と自覚してます。

30代くらいまでは鍛えるといったらどちらかというとカッコイイ身体にしたい欲みたいなものがあったのですが、なんだろ、歳を重ねちゃうとそんなことよりも身体の一部の筋力不足を実感して「なんとかしなきゃ」になりつつあります。そこらへん、ちょっと悲しかったり。

「道徳的にLGBTは認められない」雑感その2

何度も書いているのですが、一昨年からラノベの青ブタを読んでいます。シリーズ通しての主人公梓川咲太の妹のかえでは極度の人見知りで兄以外からの他人から電話をとることができませんでした。しかしこのままではいけないと一念発起して、主人公である兄とその恋人の桜島先輩の善意の協力で電話に出る練習をし、そしてそれをクリアします(「青春ブタ野郎はおるすばん妹の夢を見ない」)。が、いちばん最初はストレス負荷がかかったのかダウンします。そのことを受けて「理解するって難しいわね」と桜島先輩がつぶやくのですが、電話を容易につかいこなせる桜島先輩の視点からあらためて述べることで、電話に出る≒他人と声だけで意思疎通する、というあたりまえのように誰もができるはずのことに苦闘する他人(かえで)の姿に気が付き、読んでるこちらも自らと異なるところの多い他人を理解すること難しさや意思疎通することの厄介さに改めて気が付きます。個人的に読んでおいてよかった本です、って青ブタの話をしたいわけではなくて。ラノベであるものの本を読んで自分と異なるところを持つ他人という存在というのを改めて意識するようになったわけですが、しかしそれは誰もがそれを持つかと言ったら怪しいわけで、それはそれで厄介だよなあ、と。

話はいつものように素っ飛び、かつ、数日前に書いたことを引っ張ります。

「道徳的にLGBTは認められない」と発言した与党の政治家がいて性的マイノリティに属するわたしと異なる考え方を持つ人が居てもおかしくないのでそれはそれで不思議ではないです。が、(実存する)LGBTと道徳がどうしてくっつくの?とか私は考えちまうのですが、もちろんわかりません。ただ推測はできて、おそらく発言した人の中でLGBTは道徳的ではないという断定があって断定ゆえに説明の必要が無いと思ってるか、他人の考えをどこかで学習しててそれをそのまま述べただけなのではないかと思っています。だから結果的に私のような察しの悪い・頭の悪い人間には、え?なんで?LGBTと道徳とが結びつくの?となります。この問題、つきつめると自分と異なるものを持つ他人を「理解するのって難しい」ってなるのですが。

「道徳的にLGBTは認められない」となると桜姫東文章は僧侶と稚児が入水するところからはじまるのですがそのうちカットされるかもしれません。それくらい滑稽なことだと思ってるのですが、それは横に置いておくとして。

いまはくたびれたおっさんですがフジテレビのバラエティで性的マイノリティをコミカルに扱った番組を知って笑われる存在なのかと知って相応にあれこれ考えてた時期があって(おそらく「道徳的にLGBTは認められない」と十代で聞いたらいくらか動揺していたはずで)、おのれと他人が異なる可能性は承知してますが性的マイノリティではない人間の行為や発言に影響を受けてしまう性的マイノリティの十代とか居てもおかしくないはずです。この国には言論の自由があるのは知ってはいるのですが・法案に反対する自由はあるのですが、自分と異なる他人が居ることくらいは・自分と異なる若い未成年が聞いたらどう思うかくらいは、想像して発言して欲しかったな、とは思いました。

でもってLGBTを認めない道徳ってなんなんすかね。「吾輩は猫である」の大和魂みたいなもので、もしかして「道徳ってどんなものかときいたら、道徳さと答えて行き過ぎた、五六間行ってから、エヘンという声が聞こえた」みたいなものじゃなければいいのですが。