相変わらずの鬼門

私はあまりくじ運がありません。引き当てたことのあるくじでいちばんでかいのはかつて住んでいた街の商店街の福引の常磐ハワイアンセンターの優待券です。子供の頃の話で、無料ではない優待券なので、常磐ハワイアンセンターには行っていません。それ以降、縁がないのでいまだ福島は未踏の地ですって福島の話をしたいわけではなくて。

おそらくどこも似たようなものだと思うのですが、住んでいる街でも閉店になった飲食店や商店がいくつかあります。なにもしていないわけでもなくて、去秋に商工会が1万3千円分の商品券を1万円で売り出していました。申し込み多数で抽選になって、お察しのようにくじ運が良くないので外れてしまっています。

ところが肝心かなめのその商品券が売れ残ってしまってます。3千円のプレミアがついた商品券代1万円をねん出するのが苦しい世帯が去秋の段階ですでに増えていたのではないか、と個人的には推測しています。もちろん経済音痴なので世の中の景気についてヘタなことは云えません。

結果として、余った商品券がくじ運の無かった私にも割り当てられて、ラッキーと云えばラッキーなのですがよその人の財政が悪化した結果と考えられるのでおおっぴらには喜べません。喜べませんが利用できる小さなクリーニング店であるとか個人経営のファミマなどでちまちまと使いはじめて小さいながらも経済を廻そうとしています…ってここで終わらせれば良い話になるのですが。

ぎりぎり20時前に住んでいる街に戻れたときに、たまにはラーメン屋さんで食べて帰ろっかな…と考えました。期限のある商品券の消費ペースが鈍いってのもあります。ところが店の前のメニューを眺めているとどれも煮卵が入っています。卵が苦手なのでここはNGと決めて、よその店を探すと20時を過ぎるのは確実で、なんだかケチがついた気がして諦めて帰宅し、その日は薩摩揚げと玉ねぎと紅生姜の炒め物を主に夕めしを作っています。

今朝の新聞の折り込みチラシに居酒屋さんのテイクアウトのチラシが入っていました。夜遅くまでやってて商品券がつかえそうなので退勤時に行ってみようかな、と思ったのですが、目当てのスパイシーライスの上に目玉焼きがががががが。

ラーメンとか炒め飯系に茹で卵や目玉焼きをのせるとおそらくないよりあったほうがゴージャスにみえるはずで・お得感が出るはずで、そこらへんは理解できなくはないのです。が、卵嫌いにとっては迷惑な話で、外食やテイクアウトってやはり鬼門です。いや、その年で喰いものの好き嫌いがある方がおかしいって云われればそれまでなのですが。

いろいろありますが(≒卵を徹底的に避けながら)、手洗いやマスク着用などの感染予防はもちろんのこと、住んでいる街の経済もちょっとずつ廻してゆくつもりです。

文春新書「パンデミックの文明論」を読んで

ここのところ忙しくてはてなにログインもしてない状態で更新が滞りがちですが、憎まれっ子世にはばかるの言葉通りに生きのびております。そんななかでアウトプットが疲労でめんどくさくなり更新してないくせしてインプットというか本はちゃんと読んでいました。「パンデミックの文明論」(ヤマザキマリ中野信子著・文春新書・2020)という本が印象に残ってていちいち説明するのが億劫なので、ぜひ読んでください、で済ますのはさすがにちょっと気がひける、ので書きます。

ヤマザキマリさんはイタリアに関係が深い漫画家で、中野信子さんはフランス留学経験のある脳神経医学の専門家で、本書はその2人が対談形式で日本と欧州を対比しながら日本と欧州の考え方や文化の違い等を含めいくつかの点を浮き彫りにしてゆきます。書名にあるように疫病に対してのことが多いのですが、それがどのように社会に影響を与えたかにも世界史をふまえて触れられていて、大学を出てかなり経つ世界史(特にイタリア史)に疎くなってる人間にはちょっと興味深かったです。

本書を読んではじめて知ったことのひとつがイタリアにおける感染症対策の考え方です。ヤマザキさんの言葉を借りれば「どんな不安でも芽吹けばすぐ摘む性質」(P16)で、ともかく疫病が流行すると考えたら早期の段階で徹底的に抑え込もうとし、今回もPCR検査を大量に行い、結果としては病院がパンクしてしまうのですが、現地ではそれを包み隠さず報道していることもヤマザキさんは述べています(個人的に唸らされた)。不透明は不安を引き起こしますから、その点では理解できます。直視するのはきついですが、不安を除去するためにはきつくても直視するイタリアの凄みを思い知った気がしました。

初期ついでに書くと新型コロナ禍の初期の段階で日本ではわりとはやい段階から予防のためにマスク着用者が増えマスクが品薄になっていましたがイタリアの場合は感染症を抑え込もうとするもののマスクに対しての抵抗感が強かったらしく、ヤマザキさんはマスクが「病気になってしまったことを認めてしまうアイテムという意識が強いのだと思う」(P24)と述べてもいて、マスクに関する根本的な考え方の差も改めて知りました。

そのマスクについてに微妙に関係するのが疫病に対する姿勢です。14世紀の黒死病パンデミックのあと欧州において「疫病に打ち勝つ」(P52)という概念がでてきたのではないか、とヤマザキさんは述べます。その対比として中野さんが持ち出してきたのが

蘇民将来の護符です(↑は三重のもの)。この護符があれば疫病は寄りつかないとされてて飾られてる護符なのですが、日本は疫病に対しては勝ち負けでなく存在することはやむを得ずその上で疫病を「避ける」ことで対処する考え方がうっすらとあるのです。いまもウィズコロナなんていってコロナを勝負しないで受容してその上で各個人が「避ける」考え方を受容してるわけで。また病を「避ける」ために各個人がとるべき手段としてのマスクに日本人の多数が抵抗感がないのも腑に落ちるのです。闘うことと避けることは優劣はつけられるものではありませんが、ちょっと興味深いな、と思っちまいました。

世界史は高校のときにやってはいるのですが、恥を忍んで書くとアウグストゥスとかは覚えていてもローマ帝政がなぜ衰亡していったか、ということにあまり興味を持たずにいました。本書の中ではきっかけのひとつとして疫病が触れらています(P66)。アントニヌス帝の時代に「アントニヌスのペスト」と呼ばれる疫病が流行してしまい、商人が倒れ、食料がつき、貿易で物資を運ぼうにも船を漕ぐ人員がおらず、都市全体が飢餓の恐れがでてきて軍隊も脆弱化し、帝国を維持できるだけの体力を失っていったことが本書では述べられています。と同時にキリスト教が拡がってゆくのですが、以降、疫病とキリスト教と欧州の歴史は途中まで切っても切り離せないものになってゆくのですが、深くは知らなかったイタリア史が読んでちょっとだけクリアになっています。

詳細は本書を読んでいただくとして、他にも個人的には興味深い論点がいくつもありました。書かれたのは去夏です。そのせいか急ごしらえの本という印象はどうしてもありますしちょっと脱線してるかな、と思えるところもあって、巻末へ読み進むにつれて若干の物足りなさを感じたところがないわけでもなかったり。しかしそれでも値段分の知は得られたかな感はありました。

喰いものの恨み

鯉という字を分解すれば魚へんに里ですからおそらくどこにでもいたはずでもちろん江戸でも喰われてたはずで、剣客商売など時代小説を読んでいると鯉を料理してる場面に出くわすことがあります。「あらい」(湯水に通してから氷水に通す)にしたり、塩焼きにしたりです。どちらかというと鯉は生きているのをすぐしめたほうが美味しくて、また鯉肝をつぶすと苦味があってどうしようもないので、私は料理したことはありません…ってないっちょまえの能書きを垂れてますが、柴又の川甚という店で「鯉のあらい」と「鯉こく」をはじめて食べたのが数年前のことです。とても美味で絶品なのですが、相応の値段なので通い詰めることはできず、片手で数える程度です。なので鯉についてほんとは大口叩けません。

残念ながら鯉料理の存在を教えてもらえた川甚が今月いっぱいで暖簾をおろすことを知って、それほど通ってないので云えた義理ではないのですが、もう喰えないのかと思うと「惜しい」のひとことに尽きます。

いくらか話は横に飛ぶのですが東京は甘いもしくは甘辛いものを美味いとする独特の食文化がありました。過去形なのは実のところ風前の灯火だからです。味噌も江戸甘味噌というのがあるものの、神州一のみ子ちゃんやマルコメくんの怒涛の攻勢の前には多勢に無勢で、料理などでも甘味噌を使うところは少数派です。話を戻すと鯉を味噌で煮込む「鯉こく」は東京以外でも作られるはずですが、川甚の場合は江戸甘味噌で(それがしょっぱくならない)箸がとまらぬものになっていました。江戸時代から続く食文化を継承する店のひとつであったのでそれがきえちまうということは繰り返しになるのですけど「惜しい」のです。

時短要請や会食の制限のお願いなどひとつひとつは理解できなくはないので正直限りなく言いがかりに近いのですが、美味で長きにわたり食文化を支えた店のひとつを残せず、なにが「文化発信都市東京」だよ「食文化あふれる国日本」だよ、と思わないでもなかったり。書いてて感情的になってるのに気がついたのですが、喰いものの恨みってでかくないっすかね。ないかもですが。

不織布マスク雑感

先月だったか先々月だったか記憶は定かではないのだけど、理研かどこかのスパコンでマスクの材質によって咳をしたときの飛沫の飛散をどれだけ防げるか、という研究の発表を新聞で読んでて、飛沫を飛散させない点では不織布のほうがウレタンより良い、というのが記憶に残ってるので、(万一、無症状で感染してたときのことを考えて)それから出勤時にはまず不織布マスクをしています。(メーカーにとっては悪夢かもしれないものの)幸いなことに近所のドラッグストアで売ってるマスクが700円程度まで値崩れしてて買い置きしてあるのでケチってはいません。

勤務先のそばの地下街や大丸だと(抗菌性をうたうものもあるのだけどおそらく不織布ではない)洗えるマスクかつファッション性の高いものを扱いはじめてて、マスクがいつの間にかファッションアイテムになってるんだな、と観察できます。私がそれになかなか気がつかなかっただけでかもしれません。でもって退勤時に電車の中で眺めてるとマスクしていない人はいないけど布やウレタン系の人もけっこういます。私が読んだ記事は世の中ではあまり読まれてなかったのかもしれません。

ふと、感染拡大とマスクのファッション化に関係があるのでは、とかほんのちょっと疑ってしまうのですが、おそらく偶然にすぎず、もちろんシロウトなのでわかりません。ただ私は小心者で怖がりなので、しばらく不織布のマスクを継続するつもりです。

寒いホームで次の電車を待つのがイヤなので乗換駅で階段を駆け上がって発車前の電車に間に合って、でもちょっと息苦しくてマスクを外そうとして「あ、だめじゃん」と今夜もなってしまったのですが、なんどか経験しています。もうちょっと息がしやすくなると良いのですが、通気性を犠牲にして飛沫の拡散を防ぐ構造だとすればやはり無理かなあ…

おじさんになったなと感じるとき

中学のとき、百人一首のテストがありました。30だか50だかを覚えてそれを書けなければ居残りで、できるまでずっとテスト、というもので、撰者の藤原定家を呪いながらほぼ機械的に覚えています。京阪神に住んでいれば百人一首は身近なものかもしれませんが関東の人間にはほぼわけわかめで、「朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらわれわたるせぜのあじろき」ってのがあるはずなのですが、宇治はお茶の名前で知ってても大きな川のない武蔵野に住んでいると川霧なんて見たことなく、朝になにか現れたことはうっすらとわかるものの「朝ぼらけ」や「せぜのあじろき」が詩情に疎い中学生にはちっともわからなく、なので「朝ぼらけ」は朝のボラ、「せぜのあじろき」は戦闘機のようなものと夢想して、朝はやくにボラが跳ねてる宇治の川べりにともかく霧が発生してる中でセゼノアジロ機という戦闘機のようなものが垣間見える図を想像し頭に叩き込んで覚えました。幸いなことにどんな情景かを絵に書きなさいというテストではなかったので難を逃れています。以前このことを口にしたら隣にいた彼氏は笑う寸前で、あっこれはあまり他人に云わない方が良いのやつや…と思って封印していましたが、ここは匿名のネット空間ですからなんでも書けます、ビバ!!インターネット!!!って書きたいのはそんな話ではなくて。

たぶん前にも書いたかもしれないものの機械的に覚えた一首が「あいみてののちのこころをくらぶればむかしはものをおもわざりけり」というやつです。いまいちぴんとこなかったものの、朝ボラほどよくわからない言葉はでてこなかったのと、美味しいものを食べればあとであれ美味かったよなーと振り返るもんなーとか食べ物に置き換えてそのまま暗記しました。中学生が成長して10代後半になって食い気より色気を覚えてしまい(よいこはわかんなくていい)童貞も処女も失ってしまったあと、(脱いだり・脱がされたりする運命にある)勝負パンツを手にしてそういや昔はパンツなんぞこだわらなかったよな、と思い至ったときに「あいみての」の歌の意味をやっと理解したような気がしてます。はてな今週のお題が「大人になったなと感じるとき」なのですが、実の年齢で成人式を迎えたときよりも、昔はぴんとこなかったこの短歌の意味を体感的に理解したとき、のほうが実感がありました。人は変化するということを理解して小説や戯曲を読むと世界がいくらか広がったというか。書くとどってことないことなのですが、ちょっとでかかったです。

成人式は平成ひと桁の頃です。いまはそれから相当経ちます。この週末、待ちあわせをしてるとき、見知らぬ男の子が目の前にやってきてこちらを伺いながら手を振っていました。それに気がついて、無視するほど心の容量が狭いわけではないので手を振り返しています。すると遠くからその子を呼ぶ声がしてその子は去っていったのですが「ママー、知らないおじさんに手を振ったら振りかえしてくれたー」と大きな声で報告していました。それを聞きながら、そっか、おじさんかー、とちょっと寂しかったのですが、あとで鏡を見ると確かにおじさんで、お兄さんではなかったです。ただおじさんを実感させられてしまうことって、大人になったのを実感するのときと異なりやはり寂しさはちょっとあるなあ、と。

体感してはじめてわかることってありませんかね。無いかもですが。

「日向正宗と武将の美」展

不要不急の外出は控えろ、というのは承知しているものの、いま住んでいる街では手に入らないものが2つあって、必要があって午後は都心部まで出ていました。

それとは別に室町で三井記念美術館で三井家に関係する刀剣を見学していました。展覧会のメインは日向正宗という三井記念美術館にある刀です。刀に興味はさしてありませんが、しかしさすが三井というか学芸員さんが優秀なのか刀の各部分の名称を図解したものや鑑賞の見どころ、用語解説を加えた簡単なレジュメが用意してあり、そのレジュメを片手に展示品を眺めてました。刀文といって切るための鋭い部分に模様ができるのですが、それがわりと個性があって不思議と面白く、私は展覧会等へゆくとこの中で盗むならどれかというのを考えながら眺めることが多いのですが今回はわりと迷っています。期待はしていなかったのですが短いけど予想以上に濃密な時間を過ごせました。

このご時勢で不要不急の槍玉にあげられそうなものの筆頭がもしかしたら美術館のような気もしますが、俗世を一切忘れて濃密な体験をしたせいもあって、美術館はできれば開けててほしいな、と思いました。なお個人名や連絡先を提供した上での予約制で、予約が無い場合はやはり入り口で(おそらく感染者がでたときようなのかなあと想像するのですが)連絡先等を書く必要があります。

くだらないことをひとつだけ。室町の三井系のビルの玄関には暖簾が掛けてあります。そのうちのひとつが真結びのデザインで、私は風呂敷をこれで結ぶことがあって、経験則から云って固く結べます。しかし解きやすくもあるで縁起が良いとも思えず、なんでこのデザインなんだろうとみるたびにちょっと不思議なのですが。

8のつく日、ヨーカドーで

2月に隣県に複数回行かねばならぬ不要不急ではない用事があって、別に東京から来たからって石を投げられるとかは多分ないものの、緊急事態宣言が出て隣県への移動制限が出たらどうしようかな、とここ数日気になっていました。ところが新聞をよく読むと今回、隣県の移動の制限はありません。ありがたいっていえばありがたいのですが、怖いこと書くと都内は陽性率が14%くらいになってて、移動制限をかけなくて・そんなゆるい宣言で、ほんとにダイジョウブなのかな、という気がしないでもなかったり。シロウトなのでヘタなことは言えませんが。

前回の宣言の時は近所のヨーカドーはわりと早く店を閉めていた時期があって、それに間に合うように退勤時に駅の階段を猛ダッシュしたこともあるのですが、今回は食品売り場は夜遅くまで開けてくれてるので猛ダッシュもせずに済み、8のつく日にnanacoの決済で値引きになるのもそのままで、冷凍食品のスパゲティとか欠品がまったくないわけではないものの品物はわりとあって必要なものは買えてて、できうる限りの日常を続けてくれてて非リモート勢や住む街まで8時までに戻れなかった勢を救済してもらえるのはちょっとありがたかったり。

さて、迂回するときに乗る西武線ではマスクをすると

ペンギンが無条件でほめてくれます。なのでちゃんとマスクをします…ってのは冗談としても、感染せぬよう注意しながらやり過ごします。でもこのペンギン、マスクをどうやって引っ掛けるんだろう…