おじさんになったなと感じるとき

中学のとき、百人一首のテストがありました。30だか50だかを覚えてそれを書けなければ居残りで、できるまでずっとテスト、というもので、撰者の藤原定家を呪いながらほぼ機械的に覚えています。京阪神に住んでいれば百人一首は身近なものかもしれませんが関東の人間にはほぼわけわかめで、「朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらわれわたるせぜのあじろき」ってのがあるはずなのですが、宇治はお茶の名前で知ってても大きな川のない武蔵野に住んでいると川霧なんて見たことなく、朝になにか現れたことはうっすらとわかるものの「朝ぼらけ」や「せぜのあじろき」が詩情に疎い中学生にはちっともわからなく、なので「朝ぼらけ」は朝のボラ、「せぜのあじろき」は戦闘機のようなものと夢想して、朝はやくにボラが跳ねてる宇治の川べりにともかく霧が発生してる中でセゼノアジロ機という戦闘機のようなものが垣間見える図を想像し頭に叩き込んで覚えました。幸いなことにどんな情景かを絵に書きなさいというテストではなかったので難を逃れています。以前このことを口にしたら隣にいた彼氏は笑う寸前で、あっこれはあまり他人に云わない方が良いのやつや…と思って封印していましたが、ここは匿名のネット空間ですからなんでも書けます、ビバ!!インターネット!!!って書きたいのはそんな話ではなくて。

たぶん前にも書いたかもしれないものの機械的に覚えた一首が「あいみてののちのこころをくらぶればむかしはものをおもわざりけり」というやつです。いまいちぴんとこなかったものの、朝ボラほどよくわからない言葉はでてこなかったのと、美味しいものを食べればあとであれ美味かったよなーと振り返るもんなーとか食べ物に置き換えてそのまま暗記しました。中学生が成長して10代後半になって食い気より色気を覚えてしまい(よいこはわかんなくていい)童貞も処女も失ってしまったあと、(脱いだり・脱がされたりする運命にある)勝負パンツを手にしてそういや昔はパンツなんぞこだわらなかったよな、と思い至ったときに「あいみての」の歌の意味をやっと理解したような気がしてます。はてな今週のお題が「大人になったなと感じるとき」なのですが、実の年齢で成人式を迎えたときよりも、昔はぴんとこなかったこの短歌の意味を体感的に理解したとき、のほうが実感がありました。人は変化するということを理解して小説や戯曲を読むと世界がいくらか広がったというか。書くとどってことないことなのですが、ちょっとでかかったです。

成人式は平成ひと桁の頃です。いまはそれから相当経ちます。この週末、待ちあわせをしてるとき、見知らぬ男の子が目の前にやってきてこちらを伺いながら手を振っていました。それに気がついて、無視するほど心の容量が狭いわけではないので手を振り返しています。すると遠くからその子を呼ぶ声がしてその子は去っていったのですが「ママー、知らないおじさんに手を振ったら振りかえしてくれたー」と大きな声で報告していました。それを聞きながら、そっか、おじさんかー、とちょっと寂しかったのですが、あとで鏡を見ると確かにおじさんで、お兄さんではなかったです。ただおじさんを実感させられてしまうことって、大人になったのを実感するのときと異なりやはり寂しさはちょっとあるなあ、と。

体感してはじめてわかることってありませんかね。無いかもですが。