地下街から消えるパン屋

景気に関する新聞報道を眺めてると「依然として厳しい状況にある」という語句がまだ消えることなく書いてあって、数字や数字に限らず勤務先のそばの地上や地下街の店舗がいくつか閉店してるので実感として「まあそうなんだろうな」というのはありました。人出は以前ほどなく、先行き不透明なので人の財布が固くなってる感もなんとなくあるような気が。個人的にも給付金を請求したもののうち1万は重粒子線治療センタに寄付し千円ほど高級りんごジャムに使った以外は使う気になれずほぼそのままです。

話はいつものように素っ飛びます。

人はパンのみにて生きるにあらず、というのがあって、物質的なものではなく精神的な充足感を得て人は充実した人生を送ることができるはず、という意見に反論するつもりはまったくないのですが、わたしは胃や舌と精神がどこかつながってるっぽくて、パンに精神をわりと左右されます。美味しいパンがあるからこそしんどいときでも生きてゆけます。めんどくさい仕事をしてる時など予めいくらか高めのパンを買って焼いてそれを食べてモチベーションを上げて出勤したり、朝早めの出勤や休日出勤などのときには好みのパン屋に寄って惣菜パンなどを調達してモチベーションを上げたりしていました。

ところが。

勤務先のそばの地下街にここ数年ほど私のモチベーションをあげていた店のひとつがあるのですが、ここで来月の閉店が決まっちまいました。昨今の経済状況を鑑みれば理解できなくもないしいままでよく持ち堪えてくれた感があるのですが、なんだかやはり残念のひとことに尽きます。朝早くから店を開けててそういう点でも貴重な店でした。

きっと前にも似たようなことを書いてるはずなのですが新型コロナは副作用として東京(もしくは私の身のまわり)から美味いものを容赦なく奪い去っていってる気がしてなりません。見えない敵と闘う非常時なので耐え忍ばなければならぬ、というのは承知しつつも、いつまでこんなのが続くのかなあ。

奥秩父へ行く

以前、素麺を貰っ(て持て余し)たことを書いた記憶があります。白い繊細な麺をちらっと鑑賞するだけではちっとも減らないので、「酸いも甘いも嚙み分ける」という言葉があるので味覚において甘さと酸っぱさというのは重要なのかもしれない、とシロウトながら想像し、めんつゆに酸味を足せばよいかなと考えてポッカレモン、それに風味づけとしてごま油をいくらか足すと案外飽きずにイけました(なんだか私が料理のことを書くと実験ぽくなるのですが)。はてな今週のお題が「暑すぎる」なのですが東京はえらい暑くて、暑いときに酸味があるものは正義だよなあ、と(異論は認めます)。

話はいつものように素っ飛びます。

今夏、都民は都外への不要不急の移動は控えろ、と云われています(なので旅行もキャンセルした)。ただ不要不急って悩むところで、こういう時だからこそなのか神社は門を開けていることもあって縁のある神社へ行くことは不要不急じゃないと考え、縁のある隣県の埼玉の奥秩父三峰神社にも古い札を納めて新しいお札を受けに日帰りで行っています。翔んで埼玉では埼玉と東京の間に関所がある設定ですが実際には関所はありませんし手形も不要で、踏み草加せんべいもありません。もちろん「東京都民にはそこらへんの草でも食わせて置け」とも言われずに済んでいます。その日、東京では存在してるだけで汗が出るほどであったにもかかわらず、三峰神社は奥秩父の山の中ということもあってゆるやかな階段を登っても汗も出ませんでした。もう一度はてなのお題を借りれば東京が「暑すぎる」のですが、奥秩父は神様がいるおかげか天国のようにほんと涼しかったです(いや、その神様と天国じゃないだろ、という異論は認めます)。

くだらないことを書きます(くだらなくないことをいつかいてるのかと云われるときついですが)。三峰神社にあった看板なのですが、

熊手をギターに見立ててて、その発想が私にはなかったので、見た途端、つい吹き出してしまっています。なんだろ、奥秩父は、暑さを含め東京のことを・俗世のことを一時的にdeleteさせてくれる不思議な場所です。

涙腺が緩む曲

たぶん前にも書いたはずなのですが私が10代の前半の頃にはおニャン子クラブというのがいて「セーラー服を脱がさないで」という歌が流れていました。下品な単語は一切出てきません。でも歌詞を知ってどういう情景を歌っているのかは想像がつきます。しかしなんとなく歌うことに抵抗がありました。20の頃にサザンオールスターズが歌っていたのが「マンピーのG★SPOT」で、同じくもちろん下品な単語は一切出てきませんが、何を指すのかはだいたいわかってて、童貞も処女も(よい子のみんなはわかんなくていいです)失っていたにもかかわらずやはり歌えませんでした。知ってることは知ってるくせにそれを口にする・表に出すのが抵抗があるというこの微妙にむっつりで厄介な性格のことはとりあえず横に置いておくとして、「マンピーのG★SPOT」を耳にしてからサザンについてあまり興味を持たずにいて、流れてきたら聴きはするけど自ら積極的に聴いてはいませんでした。

東海道線茅ヶ崎という駅があって、茅ヶ崎はサザンにゆかりの深い場所でサザンの「希望の轍」がここ5年くらい発車メロディになっています。私は茅ヶ崎駅を年に何度か使うのですが、発車メロディですから全曲流れず15秒か20秒かともかく微妙なところで切れる編曲でなんだか妙に続きが気になって、その段階ではじめて希望の轍を全部聴きました。エボシラインは国道134なのかな?程度にはあのあたりに土地勘があったせいもあって解釈と鑑賞を試みたこともあります。正解は知らぬものの意味的には未来へ走る曲、的な意味なんだろうなと思っています。でもって、希望の轍を含め、サザンの曲をまともに聴くようになったのはここ5年くらいです。二十年近く宝の山を素通りしていたわけで。

話はいつものように横に素っ飛びます。

NHKがサザンの無観客ライブのダイジェスト映像を放映していたのを録画していてそれをものの見事に忘れていて、この週末それを視聴していました。簡単なつまみの準備をしてたので希望の轍の途中からだったのですが、希望の轍の最後のほうで「大変な毎日をご苦労様」と置き換えて歌うのを耳にして画面越しの桑田さんと目が合ってしまったが最後、医療や介護の前線にいるわけでもないにもかかわらず、うるっときちまいました(無言で箱ティッシュを寄越してくれたのはありがたかった)。いまさらなんすけど、いまの状況は「大変な毎日」なのかと改めて思い知った気が。

槇原さんの「林檎の花」は同時に流れていたJRのCMの影響でわたしにとって過去の自分を想起して涙腺が緩む曲なのですが、「希望の轍」もコロナ禍が収束したらコロナ禍の日々を想起して涙腺が緩む曲になりそうな気がします。もしかして歳をとると、なんらかの体験や経験とともに涙腺が緩む曲が増えてゆくのかも

夏の夜の学習

マスクをしだして半年はゆうに越しているはずなのですが、相変わらずマスクのある生活に慣れません。以前書いた記憶がありますが、発車メロディが鳴ってるのが聞こえると数分後に電車が来ると頭で理解していても(ダイヤ乱れの多い路線の沿線民の習性としては)そこに居る電車に乗ってしまいたい意識が働き、マスクをしているのを忘れて階段を駆け上がってメロディが終わる前なら乗ってしまい、ドアが閉まった後にやはり息苦しくなってきてマスクを外そうとして、人が多いのでうかつに外せない、ということに複数回経験しています。私は学習しない鳥頭です…って書かなくてもいいことを書いている気が。

猛暑日になるので熱中症予防として充分に水分補給をというのを毎朝天気予報で聞いてはいて、なおかつ通院先でも水分補給はこまめにしろといわれてて、カバンの中にはわりとペットボトルを忍ばせてはいます。ただマスクをしての通勤時・退勤時に電車の中でマスクを外してそれらを飲む、というのは間の悪いことにいまは第二波真っ只中ですしちょっとしにくいです。だいたい電車を待つ間・乗る前にマスクを外して水分補給するのですが、今晩は退勤時のそのまま電車が来てしまったので水分補給をせずに乗ってしまっています。乗り換えの接続もよく順調に住んでいる街に着いたら15%引きのクーポン券を貰ってたドラッグストアでコンタクトのケア用品を買うつもりでそこに寄り、外に出ると昼間よりはさすがに温度は下がってて快適とまではいかなくても夜風が吹いていました。夜風に吹かれてだらだらとした坂を歩いて帰ったまではよかったのですが。帰宅して数分してからなんとなく世の中が回ってることに気が付きました。しばらくして世の中が回ってるんじゃなくて「これ、めまいだ」と認識し、あわてて水分補給をしてクーラーをかけて涼みながら安静にしていたら収まってきて、なんだろ、夜風にあたっていくらか涼しかったので・マスクするとのどが乾かないので、そうとは気が付かなかったのですが、おそらく水分を適宜とらなかったことによる軽い熱中症だったのかも、と判断しています。

発車メロディを聞いて階段を駆け上がることはしてしまう可能性があるのですが、個人的に「めまい」は経験したくないキツイことのひとつなので鳥頭でもさすがにマスクをしてると熱中症になりやすいというのは学習して避けるつもりです。

というかそれよりいつまで続くのかなあ、この暑さ。

蕎麦湯に関する微妙な心理

蕎麦粉から打って蕎麦を自作するようなことはしませんが、市販の麺で作るときは夏は蕎麦の上にかつお節や刻んだネギを散らし、蕎麦つゆと大根おろしを合わせたものをぶっかけて喰うことがあります。大根おろしはまあまあめんどくさいですが、食はわりとすすみます。ただしこの喰い方だと蕎麦つゆをすべて皿の上にぶっかけるのと同等ですから蕎麦湯はしません。

さて、これから書くことはとてもくだらないことです(いつもくだらないことばかり書いていますが)。

埼玉の出かけた先でおそいお昼に蕎麦屋に入りました。はじめての場所ではじめての店で店内は清潔感はあるものの、いくらか足が良くないのかな?と感じさせる老齢の店主の男性が一人で切り盛りしてるようでした。関東は暑い日が続いていて外が暑かったので、二人ともざる蕎麦を頼んでいます(大根おろし系があったらそれを頼んでいたのですが残念ながらなかった)。しばらくして出てきた蕎麦は、蕎麦のほのかな甘みを感じさせもするとても美味しいものでした。店主がいつのまにか居なくなってて蕎麦はざる蕎麦だし蕎麦湯は一緒に出てこなかったので、もしかしてこれは蕎麦湯を用意してくれているパターンだろうかと(自分ではまず作らないので)ほのかに期待していたのですが、食べ終わっても蕎麦湯は出てきません。「蕎麦湯が欲しいんですけど」と声を出して催促するのも変だしなあ、と躊躇していたら、奥から出てきた店主の男性があたたかい淹れたてのお茶を持ってきてくれました。あ、これ、蕎麦湯がないパターンだ、と悟ってつとめて平静に「ありがとうございます」と礼を述べ、そのあとお茶を飲み干し(このお茶も美味しかった)、頃合いを見計らって「ごちそうさま」と会計して店を出たのですが。

厨房をチラチラ見ていたのに気が付いていたのかもしくは同じく蕎麦湯を期待していたのか、蕎麦湯でなくて残念だったな、と車に戻ってから云われはして、でも蕎麦は美味かった、と噛み合わずに応じたものの、たしかに蕎麦湯がないのが残念といえば残念でした。なんだろ、無くてもいいものなのですが、蕎麦屋で蕎麦湯ってどこか期待しちまいませんかね。

いま関東ではどこもコロナに警戒しマスクの着用を呼びかけているのですが出かけた秩父では

狛犬にマスクはムリなので手ぬぐいをしていました。ただ、なんだろ、神罰を恐れずに言うと

ギャングみたいだな、と思わないでもなかったり。

「危機は平等に訪れない」

すっごい個人的で些細なつまらぬことをまず書きます。

先日、この時間の〇武線に乗ったら感染するかも、的な趣旨のあるSNSの書き込みをみてなぜかイラっとしました。ナチュラルにそう書いてると思え、特段、書いた人に悪意があるとは考えにくいのです。私は第一波のときは仕事の都合で都心部に出社していました。いまもかわりません。JRも地下鉄も〇武も〇急も対策はとっているし乗るほうもマスクをし、私は(血液の数値が不安定なのこともあって)ハンディタイプのアルコールすら持参しています。万一、ラッシュ時の電車で感染するのなら三月からこちら通勤を続けて生きてるおれはもしかしてゾンビなんだろうか?的なことすら考え、おれ精神を病んでるのかな、おれ疲れてるのかな、などとうっすら見当をつけていました。でもって、そのもやもやは一週間くらい続いていました。

15日付毎日東京版朝刊に上野千鶴子東大名誉教授執筆のコロナに関する記事が載っていました。そのなかで「危機は平等には訪れない」という指摘がありました。上野先生は外国人や育児中のシングルマザーなどを念頭に置いていて、記事中の言葉を借りれば「危機はもともと困窮した立場の人たちをより苛酷なかたちで襲う」と書かれてて、個人的には住んでる街にJCなどによるフードバンクなどが出来ていたので薄々気が付いていたことではあるのですが、言語化されてて腑に落ちています。

話をズラすと決算などで出社していた非正規ではないおっさんにはこれっぽっちも触れてはいませんが、個人的には「危機は平等には訪れない」という言葉をおのれのもやもやに代入すると、(一年前に比べて人が減ったとはいえ)通勤ラッシュを回避できる人と回避できない人の差がもうできていて、ラッシュを感染の危機と捉えて回避できる人に対して、感染対策としてマスクや手洗いなどはできても回避できない立場の私はその人と同じ列に居ないことに気が付いたわけで。もやもやは「いい身分だなあ」という羨望とやっかみが根源かもしれません、って程度の低いおのれのくだらないことはさておき。

さて恣意的に上記部分において私は「危機は平等に訪れない」ことを抜き出して書きました。

が、上野先生の記事はけっこう重く、明らかに違うのは国家対国家の戦いではないとしたうえで、全般的にさきの戦争時の社会と比較しながら書かれています。強制力のない自粛で効果をあげたのは同調圧力のもとの差別と排除であると喝破し、いわゆる自粛警察は(上野先生は直接は知らないものの)戦時中の隣組ではないのか?という問いかけがあったりします。感染者を出した施設をバッシングすること・他府県ナンバー狩り・感染のリスクの高い職業の親を持つ子の登園拒否などにも触れ、体制翼賛に従わない人たちを非国民と呼び排除していた戦時下はこうであったのではないか、とも書かれています。また「非常時があきらかにするのは平時の問題が増幅・拡大し、すでに起きた変化が加速する」とも指摘していて、同調圧力を含めて読んでいてほんとにそうかもしれない、と思えました。

バカにされそうなことをあえて書いておくと去春から読んでいたラノベの青ブタは同調圧力のようなものが描かれていて読んで私もそれを意識しだしてて同調圧力はこの国の宿痾のようなものかもしれないな、とか考えていますって、私が異論をもたないところでなんの意味もありませんが。

上野先生の記事には直接的な解決策が示されているわけではありません。もっとも(既視感を覚えるものが多い中)過去の歴史から学ぶことは正しいであろう、としています。さきの大戦の日本軍が無謀な戦略下で現場の必至の戦闘で補ったことと、いまは実際に医療や介護の現場が奮闘してる現状の類似を指摘していて、たしかにこのまま行くと明るい未来ではないような気がしてなりません。ましてや近現代史はおろそかにされがちで、誰もが知る分野ではありませんし。

話がいつものようにすっ飛び、かつ個人的で些細なことに収束します。

明るい未来が来ないとしてもくたばるまで職務を全うするつもりですが、知ってしまうとやはり頭が痛いのが「危機は平等に訪れない」ことであったりします。相対的平等ということばがあほうがく部卒なのであたまにちらつくのですけど、個人でできることは対感染症では手洗いやマスクしかできませんし、対社会的には寄付であるとか投票行動であるとかそこらへんに限られちまうのですが。

ボーっと生きてきた人間には怖い世の中

NHKで「チコちゃんに叱られる」という番組があります。チコちゃんに質問を投げかけられて知らないと「ボーっと生きてんじゃねえよ」と叱られる番組です。なんどか録画して視聴してたのですが、知らないことに関して「ボーっと生きてんじゃねえよ」と云われるのはしんどいな、と思いはじめました。

とどめはタイムマシンについて扱った回で、現時点で未来には行けることの相対性理論を使った番組内の説明は同意できるものの過去については過去へ行く方法を見つけることができていない、ということで処理されていて、でもそれじゃあタイムマシンじゃないんじゃ?と思いつつ「タイムマシンはある」という解を維持していたのをみて、設問も解答もチコちゃんの中にあって設問や解に確たるものがなくチコちゃんがルールブックというか、うわあイヤだ…と感じてチコちゃんが苦手になっていまに至ります。よくわからない正解あてゲームをして外れたら「ボーっと生きてんじゃねえよ」と云われるのだから地獄だよなあ、と。芸能人じゃなくて一介の(勤務先は4階の)サラリーマンですからあの番組に呼ばれないのが幸いです。

話はいつものように横に素っ飛びます。

豚肉やワンタンの皮を買ってきて揚げて甘酢あんかけなどにするためにワンタンを自作することがありますがまず餃子は自作しません。つねに冷凍餃子のお世話になっています。最近になって冷凍餃子の利用が手抜き扱いになってるのを報道で知って餃子(というより料理)は手を抜くべきではないという思考が世の中にあるのだなあと思い知りました。

私は「ボーっと生きてんじゃねえよ」と「手抜き」のことがなんとなく関連してこの世の中を表しているような気がしていて、明示はされてないけど、人は常にパーフェクトを追うべき、というのが暗にあるような気が。「手抜き」という言葉の裏には「手を抜かない」、でもって「ボーっといきてんじゃねえよ」という言葉の裏には「ボーっとしないで生きる」世界があるはずです。たしかに本などを読んで多くのことを知ってボーっとしないで生きて、餃子を手作りして手抜きをしない食生活、というのはパーフェクトかもしれません。処理しなければならぬ業務を処理して退勤後の地下鉄の中で本も読まずに疲労からボーっとしながら帰宅して、買い置きの鯖味噌缶の鯖にキャベツとピーマン、しょうがを加えてゴマ油でいため、サバ味噌缶の汁に豆板醤に酒を加えて回鍋肉的鯖をでっちあげて手抜きするようなやつなのでその理想からほど遠く、立つ瀬がないのでいま座っていますって話がほんとズれた。

時間は有限で「ボーっとしないで生きる」ことや「手を抜かない」ことが難しい状況も誰にでもありえるはずです。でも、なんだろ、仕事以外でも常にパーフェクトを追わなければならない状況というか、ボーっと生きることや手を抜くことが良いこととされない世の中にいつの間にかなってるのって、ちょっと怖いよな、といまさら気が付きました。もっとも昔からそうだったのかもしれなくて、私がボーっと生きてたのかもしれなくてなかなか気が付かなかっただけかもしれぬのですが。