「危機は平等に訪れない」

すっごい個人的で些細なつまらぬことをまず書きます。

先日、この時間の〇武線に乗ったら感染するかも、的な趣旨のあるSNSの書き込みをみてなぜかイラっとしました。ナチュラルにそう書いてると思え、特段、書いた人に悪意があるとは考えにくいのです。私は第一波のときは仕事の都合で都心部に出社していました。いまもかわりません。JRも地下鉄も〇武も〇急も対策はとっているし乗るほうもマスクをし、私は(血液の数値が不安定なのこともあって)ハンディタイプのアルコールすら持参しています。万一、ラッシュ時の電車で感染するのなら三月からこちら通勤を続けて生きてるおれはもしかしてゾンビなんだろうか?的なことすら考え、おれ精神を病んでるのかな、おれ疲れてるのかな、などとうっすら見当をつけていました。でもって、そのもやもやは一週間くらい続いていました。

15日付毎日東京版朝刊に上野千鶴子東大名誉教授執筆のコロナに関する記事が載っていました。そのなかで「危機は平等には訪れない」という指摘がありました。上野先生は外国人や育児中のシングルマザーなどを念頭に置いていて、記事中の言葉を借りれば「危機はもともと困窮した立場の人たちをより苛酷なかたちで襲う」と書かれてて、個人的には住んでる街にJCなどによるフードバンクなどが出来ていたので薄々気が付いていたことではあるのですが、言語化されてて腑に落ちています。

話をズラすと決算などで出社していた非正規ではないおっさんにはこれっぽっちも触れてはいませんが、個人的には「危機は平等には訪れない」という言葉をおのれのもやもやに代入すると、(一年前に比べて人が減ったとはいえ)通勤ラッシュを回避できる人と回避できない人の差がもうできていて、ラッシュを感染の危機と捉えて回避できる人に対して、感染対策としてマスクや手洗いなどはできても回避できない立場の私はその人と同じ列に居ないことに気が付いたわけで。もやもやは「いい身分だなあ」という羨望とやっかみが根源かもしれません、って程度の低いおのれのくだらないことはさておき。

さて恣意的に上記部分において私は「危機は平等に訪れない」ことを抜き出して書きました。

が、上野先生の記事はけっこう重く、明らかに違うのは国家対国家の戦いではないとしたうえで、全般的にさきの戦争時の社会と比較しながら書かれています。強制力のない自粛で効果をあげたのは同調圧力のもとの差別と排除であると喝破し、いわゆる自粛警察は(上野先生は直接は知らないものの)戦時中の隣組ではないのか?という問いかけがあったりします。感染者を出した施設をバッシングすること・他府県ナンバー狩り・感染のリスクの高い職業の親を持つ子の登園拒否などにも触れ、体制翼賛に従わない人たちを非国民と呼び排除していた戦時下はこうであったのではないか、とも書かれています。また「非常時があきらかにするのは平時の問題が増幅・拡大し、すでに起きた変化が加速する」とも指摘していて、同調圧力を含めて読んでいてほんとにそうかもしれない、と思えました。

バカにされそうなことをあえて書いておくと去春から読んでいたラノベの青ブタは同調圧力のようなものが描かれていて読んで私もそれを意識しだしてて同調圧力はこの国の宿痾のようなものかもしれないな、とか考えていますって、私が異論をもたないところでなんの意味もありませんが。

上野先生の記事には直接的な解決策が示されているわけではありません。もっとも(既視感を覚えるものが多い中)過去の歴史から学ぶことは正しいであろう、としています。さきの大戦の日本軍が無謀な戦略下で現場の必至の戦闘で補ったことと、いまは実際に医療や介護の現場が奮闘してる現状の類似を指摘していて、たしかにこのまま行くと明るい未来ではないような気がしてなりません。ましてや近現代史はおろそかにされがちで、誰もが知る分野ではありませんし。

話がいつものようにすっ飛び、かつ個人的で些細なことに収束します。

明るい未来が来ないとしてもくたばるまで職務を全うするつもりですが、知ってしまうとやはり頭が痛いのが「危機は平等に訪れない」ことであったりします。相対的平等ということばがあほうがく部卒なのであたまにちらつくのですけど、個人でできることは対感染症では手洗いやマスクしかできませんし、対社会的には寄付であるとか投票行動であるとかそこらへんに限られちまうのですが。