アナログの時計

甲府信玄餅は別として死んだ両親はよくある定番の土産を買うことを露骨に嫌っていました。安直に金を使うな、情報収集して考えて金をつかえ、という教育だったのかなあ、とは今になって思うのですが、当時はそんなことはわかりません。両親が生きてる間に京都に数回行っていますが、考えなくて済む定番の生八つ橋を買って持って帰ったことはたぶんありません。その代わり宿の人であるとかメシを喰いに行った店などで美味しいと思うところを教えてもらって、今出川駅からいくらか離れたところにある堀川通りの田丸弥というところの白川路というおせんべいか、四条河原町にあった長久堂というところの求肥昆布という求肥の菓子をわりと買っていました。定番外しのおかげでほかにも永楽屋の琥珀であるとか知らんでも良い京和菓子をいくつか知ったのですが、って定番の話をしようとしてズレちまった。

はてなのお題が「私の定番グッズ」なのですが。

定番というのが「考えなくて済む」という点でいえば、ずっと使ってるのがアナログ表示の懐中時計です。デジタルもアナログも現在の時間表示は同じです。でも、ぱっと見で長針と短針の位置を確認して現在の時間を割り出し、精確でなくてもいいから特定の時分まであと何分程度あるかとかをとらえたいとき・たとえば11時まであと何分くらいあるかなんてのは、慣れてるアナログのほうが個人的には都合いいのです。特定の時分までの計算はデジタルでもできないことはないのですが考えるのがめんどくさく、デジタルよりあまり考えずに視覚的に理解できるアナログ表示のものをずっと使っています。このことについて書けば書くほど視覚的というか感覚的なものに頼りあまり頭を使いたくないおのれのすがたが浮かび上がってくるのですが。

私は粗雑なのでフタつきのを使っています。ねじ式ではなくクォーツ式です。朝から晩まで肌身離さず持ち歩き、かなり使い込んでいるのであまりキレイではありません。

普通

東京から新宿や立川を経て高尾や甲府小淵沢へ行く中央線という路線があります。その中央線は途中まで快速と各駅停車しかありません。よく訓練された多摩地区の中央線沿線住民的には普通というと立川や高尾から出る甲府行きや小淵沢行きで、どちらかというと普通という語句に非日常の印象がありますって、そんなことはどうでもよくて。

この国の民法を開くと、末尾でないほうにあるのが俗に財産法とか契約法とよばれるものでたとえば売買とか賃貸借とか債務にかかわるものがあり、末尾のほうにあるのが家族法とよばれる分野で婚姻や離婚に関するものがあります。財産法や契約法とよばれるものが「人の合理的で打算的で選択的な意思に基づくもの」を前提にしてて、たとえば不動産を賃借するときや炊飯器を買うときにいろいろ物色して合理的に打算的に財布と相談しながら買うことが多いと思われますが、そういう行動を前提にしています。たいして家族法というのは「人の非合理的で性情的で決定的な意思」を前提にしていて、婚姻とその手前の恋愛というのは炊飯器を買うように合理的に打算的に動くか、というと必ずしもそうではないことがあるわけで、そこらへんを前提に制定されてるものなので家族法は同じ民法でも財産法などとかなり異なります。ここで民法家族法の授業をここではじめるつもりはありません。ただ家族法に触れた大学生当時には既に同性に惹かれる経験をしていた私は・童貞も処女も失っていた私は、「非合理で性情的で決定的な意思を持つ」という語句がひどく腑に落ちて、同時にひどく救われています。

「非合理で性情的で決定的な意思を持つ」選択というのは誰もが腑に落ちる合理的な選択ではありませんから、当事者はともかくとして当事者以外の誰もが納得する正解なんてありえないことを意味します。当事者以外が傍から当事者2人を見て「それは普通ではないのに」と思っても当事者たちは「これしかないと思ってしたいことをしてる」ので、「それは普通ではないのに」という意見は当事者たちにとってどうでもいいことであったりします。仮に「それは普通ではない」と云われても、そもそも普通ってなに?ということに直面します。高尾発小淵沢行きは別としてそもそも普通という言葉は普通という言葉を持ち出した人の脳内でなんらかの意味を持たせて納得するための幻想の定規なんじゃないかと思っています。

恋をする前に普通の男が居ない、というはてなで話題になった言説をまともに読んではいません。なのであさってなことを云ってる可能性があります。清潔感はなるべく維持するようにしててあいさつはするしお礼をちゃんと言うものの、私は誰もが納得する普通の男かというと確実に違うと思います。なので私は普通の男の定義に関して発言権はないはずです。でもこいつしかないという「非合理で性情的で決定的な意思」を持つ選択を誰もがしかねず、「合理的で打算的で選択的な意思に基づく」恋を誰もがするとは限らない社会で、普通や最大公約数的な理想を詰め込んだ普通の男を定義することに、なんの意味があるのだろう、ということはちょっとだけ思っちまったり。いや、それはてめえがいつも普通じゃないからだろうといわれればその通りで、いつもは快速か通勤快速にしか乗りません。

甲府方向へ行く普通について語ると中央線の下りは進行方向左手に座ることをおすすめします。笹子トンネルを抜けて勝沼ぶどう郷に着くあたりで視界に甲府盆地が、そして南アルプスの前衛の山々が飛び込んできます。何度も通ってるのですが、つい見ちまったり。

ぷち地獄

夏前にちょっと蕁麻疹の症状が出ていました。そのときも、その前のときもそうなのですがたいてい午後の遅い時間帯で、鎖骨もしくは上腕の一部にかゆみが出ます。皮膚科へ行って「ストレスためないように」と無理難題なアドバイスを告げられつつ一緒にアレグラを処方してもらっていて、「ちょっとずつ減薬していい」と云われていたので減薬してゆき7月の終わりには終息していました。

でもって午後遅く、身に覚えのあるかゆみが今度は背中に。背中なので目視による確認はしてないのですが、念のため持っていた市販のアレグラを離席したときに服用して効き目があったのでまた蕁麻疹が再発しちまったみたいで。場所が手の届きにくい左右の肩甲骨の間の上部あたりなのですけど、私はあまり身体が柔らかいほうではないので手がちょっと届きにくく・まごの手をカバンに入れてるわけでもないので、アレグラが効くまでがぷち地獄でした(ポーカーフェイスを装いながら耐える美中年…じゃねえ、おっさんをご想像ください)。

どこまでできるかわからないけど(背中にプチ地獄が発生するかもなので)当座ストレスをためないようにしながら処方されたアレグラを手に乗り切るつもりです。

べったらを齧る

東京の伝統の漬物のべったらが甘いことを先日書いたのですが、ほかにも江戸味噌は甘いです。醤油と砂糖をつかう稲荷寿司なども東京以外にくらべて東京はどちらかというと甘く味つけします。でもって私が育ったのは東京です。死んだ両親も東京です。その血を受け継いだ私も味付けは甘いところがあります。豚のしょうが焼きを作るときも(タレ多めで)キャベツだくだくでおそらくよその地域で食べられてるものよりいくらか甘めに作ります。それを一人でないときの夕飯に大きめの皿に出すと都民二人で豚ロースより染みたキャベツの奪い合いになるので本末転倒なのですがって話がズレた。仮に美味しいと思うものがもしそれまでの経験に左右されるものだとしたら、べったらや稲荷寿司などこれら東京の独特の甘めの食べものはもしかしたら東京以外の人の口にあわぬかもしれぬ、とうっすら思うことがあります。

はてなハイクというSNS的サービスがはてなのサービスであったことを何回か書いた記憶があります。そのなかで「東京にもおいしいものがあるんですね」と口調は丁寧だけど悪意があるかどうかはわからぬ上から目線で書き込んでいる人が居て、東京の味付けが東京以外の人の口にあわぬ可能性を否定できないと思いつつも、東京には美味しいものが無いという前提なのか、と何年経てもいまだに忘れることができずにいます(だいたいべったらの時期に思い出す)。今年に入って読んでる青ブタ(ロジカルウイッチ)のなかで、会話ではなくデジタルの文章のほうが一方的で衝撃を受けやすいと書かれてて、忘れることができぬ理由もああおれは衝撃を受けていたんだなと理解してて、やはりおれはSNS向きではないのだな、という前にも書いた結論に結果的に至ります。反面教師としてなるべく「ああいうふうに云わんとこ」とも思うようになっています。

でもそういった突然の不意打ちをくらったら、どうやって忘れたらいいんすかね。いまのところ最大の復讐は普通にくらすことかなと考えて、(わかり合えるとも思ってないのでフォローもせずもちろん今どこで何をしてるのかまったく知らないのだけど)おそらくその発言をした人がご存知ないであろう甘いべったらを齧り、おそらくしないであろう甘めのしょうが焼きを作るのですが。

べったら

10月を神無月と呼ぶことがあります。理由としては神様方が出雲へ行っているから、ということになっています。もっとも出雲に行かない神様もいて、日本橋のあたりは恵比寿さんが留守番しています。そのことと何らかの関係があるのかわからぬものの、大伝馬町の宝田恵比寿はこの時期(19日と20日)に例大祭を行います。でもって19日に大伝馬町へ行っていました。

大伝馬町の宝田恵比寿っていっても芝神明宮みたいな誰もが知っている神社ではありません。知らない人のほうがおそらく多い、ビル街の中にあるちっちゃい神社です。氏子ではないのですが、縁があって死んだ両親に連れられて小さいころから来ていました。その記憶はもちろんベビーカステラとかソースせんべいとかと一緒です。両親が居なくなっても宝田恵比寿とそばにある椙森恵比寿に見守られてる感があるのでなるべく欠かさず一年に一度、秋に生存報告をしています。ベビーカステラやソースせんべいは(広島式の)お好み焼きになりましたがってそれはさておき。

今年はなぜか御朱印を貰う人が不思議と多く(にぎわってるのは嬉しいのですが)、社殿を写すわけにはいかないので、明治座(という近くの劇場)のほかの奉納提灯類を写しています。

椙森もビル街のちっちゃな神社です。椙森恵比寿も御朱印を貰う人が不思議と多かったです。なので提灯を。ここは江戸期は富くじをやってて落語の「富久」に出てくることがありますからちょっとだけ名が知れてるかも。くじに関して書いておくとそれが目当てではないものの、死んだ両親も私も椙森に通ってますが宝くじで大金を当てたことはありません(唯一、福引で常磐ハワイアンセンターの割引券を当てたことがありますが)。それを奇貨としてここ数年は仕事がハードな時やもしくはこぼれ幸いがあったときなどに自治体に金が落ちる自治宝くじを買ってますが「当たるわけない」とハナから期待してません。当たったら困るというか私はくじに外れるという不運をそこに集中させるために買ってます。宝くじの変な買い方かもしれません。「謎なことをする」って呆れられてますが止めるつもりはありません。

さて、宝田恵比寿や椙森の周辺でこの時期売られてるのが

べったらです。簡単に云えば甘い浅漬大根で、いちばん安くて500円くらいで袋詰めされて売っています。はてな今週のお題は「秋の空気」なのですが、袋詰めされたべったらの封を切り皿に出し、べったらの甘い香りを鼻腔に満たすと、秋であることを実感します。香りだけでご飯三杯はムリにしても多幸感に浸れるので可能ならべったらの香りをずっと吸っていたいです、ってなんだか変なヤツになってしまいそうなので話を戻すと、べったらは大伝馬町以外でも年中手に入れることができます。でも私にとって子供のころから「秋の楽しみ」的な位置づけなのでなるべく秋にしか食べないようにしています。この考え方、変かもしれませんが、べったらは特別なたべもの感が抜けなかったり。過去の体験と舌の記憶って、好物に対する行動を慎重にさせることってないですかね、ないかもですが。

 

リズムとかテンポとか

わたしは文章を書いてたくさんの人に読んでもらおうという意識がかなり薄弱です。読んだものや経験したことを軸に書いてはいるものの書けば書くほど教養もなければそれほど頭脳明晰でもないのでそれが多くの人にバレるのはヤダ、ってのもあります。じゃあなんで書いているのかと問われれば繰り返しになりますがはてなハイクというところで私は他人の文章がわからなかったことがあり「ああいふうになりたくない」という意識が強烈にあり、そうならぬように「他人にわかるように書く」ことを念頭に続けてるに過ぎません(もっともこれらの行動は「ああいうふうになりたくない」と思った人の裏写しのクローンなので不意にかけられた呪いから逃れられてない証左なのですが)。ただ「他人にわかるように書く」というのを考え出すとすごく難しいです。難しいのですが逆はよくわかります。自分がわかりにくいと思わされた文章はよく知らない言葉が散りばめられていたり、読んでてなかなかわからなかった文章はリズム感というかテンポがよくなかったりします。

話はいつものように横に素っ飛びます。

19日付毎日東京版朝刊に桂南光師匠と山田ルイ53世閣下との対談が載っていました。南光師匠が山田ルイ53世閣下の書いたコラムを「リズムが良い」「読み易い」と褒めてるところからはじまっています(肝心かなめのその山田ルイ53世閣下のコラムがどこに掲載されたものなのかよくわからないのが難点なのですが)。対談中、山田ルイ53世閣下が文章を書くときにテンポを重視してる旨の発言があってまたしゃべりが基本で、それを受けて南光師匠が「師匠の口調だとええけど僕が言うと違うということがあるからことばの順序を前後さすとかカットするとかする」とも述べてて、薄々気が付いていたことではあったのですがリズムというかテンポというのはやはり人に聴いてもらうことや文章を書く上で大事なのかもなあ、と読んで改めて思いました。付随して経験から云って他人にわかるようにテンポやリズムを意識してしゃべることって案外難儀なことなのでそれでこその芸なんだよなあ、と気づかされてもいます。芸レベルでなくてもテンポやリズムを意識してしゃべること・しゃべるように書くことは難儀な気がするのですが、なんだろ、改めて重要なヒントを貰った気が。

って、テクニックを知ったところで基礎となる教養や観察眼やセンスが無かったら意味がないかもしれないのですが。

ホームにて

体重は18からこちらは60キロを±3キロくらいでずっとさまよってて、身長は175でありがたいことに健診等でメタボ判定を喰らったことは一度もありません。ゲラなので腹筋は鍛えられてるはずなのですが、それだけではやはりムリだったようで腹筋は割れていません。シックスパックかあ…それも良いなあ…と思いつつチャレンジをはじめても熱しやすくて冷めやすいB型なのでって血液のせいにしてはいけないような気がするので言い直すと腹筋に対する熱意はほとんど無かったので、腹も出てないかわりに一度も割れたことがありません。筋肉体操もやってません。なので脱いでもすごくはありません。いくらか貧弱な身体のままおっさんになってしまっています。はてな今週のお題が「運動不足」で、どちらかというとそれです。強いていえば住んでいるところと最寄り駅までの片道徒歩15分の道をよほど雨がひどくならない限りは朝晩往復してる程度です。プラスして勤務先はいまいるのは4階なので階段であがれば上等なのかもしれませんが、横着してエレベータをつかっています。

退勤時、地下鉄との乗換駅で、通勤快速がホームに止まってるのを確認し、間に合うかも!と一縷の望みを託して階段を駆け上がったあと間に合わず、電車を見送りながら肩で息をしてるのに気が付くと「鍛えなくっちゃな」とは思うのですが、なかなか実行に移せていません。