大足族の嘆き

日本語が不思議なのは「大きい≒バカ」にされがちなところでたとえば「バカの大食い」という言葉があります。「大男総身に知恵まわりかね」なんてのもあります。そんななかで「バカの大足、マヌケの小足、中途半端なろくでなし」っていう理不尽な言葉があります。上半身は華奢なのものの足腰が鍛えてあるので残念ながら私は大足族です。アイスクリームを買ってついてきたドライアイスを水を張った洗い桶の中に入れてスモークを眺めるようなことをしないわけではないので私はバカかもしれませんが、ただ世の中の大足族が全員バカとは限らないような気が。

昨夜遊びに来ていた相手を見送りに行ったときにかかとに冷たい違和感を感じて、帰宅して普段履きの靴の裏をみたら右の靴のかかとに見事に穴が開いていました。でもって今日の退勤後、普段履きの靴だし住んでいる街で買おうとしてヨーカドーに寄ったらいつのまにか靴売り場がかなり縮小してて27以上は取り扱いが無いとの宣告。できれば27.5から28は欲しいのですが、置いてもたいして売れないのかもしれず、たいして売れぬ靴を抱え込む余裕がヨーカドーにはないのかも。大足族には暮らしにくい世の中になっちまったなあ、と思いました。嘆いててもしょうがないので明日はどこかで途中下車をして探すつもりです。

「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」を読んで1

仮に変質者っぽい男が居たとしてそのそばでちっちゃい子が泣いていたとします。そこに通りすがったら介入するでしょうか。正義の味方ならたぶん介入すると思います。正義の味方が介入して変質者っぽい男に尻にケリを入れて、そのあとケリを入れた男がちっとも変質者ではなくむしろ迷子を保護しようとしていた善意の塊とわかったらどうするべきでしょうか。善意の塊と正義の味方の衝突の結末は、ケリを入れた正義の味方が誤りを素直に認めることで事態は急変します。正義の味方は自らの尻にケリを入れろと催促し、善意の塊は催促された通りにします。

↑のエピソードはここのところ何度か書いている「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」という(ライトノベルズの定義は知らないのですがいわゆる)ライトノベルズで描かれた重要な場面のひとつ、かつ、個人的にしびれた場面のひとつです。介入してケリを入れた正義の味方は女子高生で、善意の塊は主人公の男子高校生です。間違いを率直に認める点や何気に相手の意思を尊重するところが読んでいてフィクションとわかりつつも「こうありたいな」と思わせるところがありました。善意の塊はデートに行く途中で正義の味方も友人との約束があるのだけど、尻をケリあったあと警官がやって2人を連行しますし、善意と正義の衝突の結果尻をケリあったことが後日別の事態を引き起こすのですが、どうなったかは本をお読みいただくかBS11とABCで7月から放映するアニメをご覧いただくとして、はてな今週のお題が「2019年上半期」なのですが、この半年は「青ブタ」シリーズにいくらかのめり込んでいました。

前にも書いたかもしれないのですが、再度書きます。物語のなかで登場人物の行動についてそうせざるを得ない相応の原因もしくは理屈があってそれらは明示され、また、起きた事象についても不可解にみえますが量子力学を含め説明があり、たとえとして適当ではないかもしれませんがそれらを読むことでよくわからなかった数学の問題の解説を聞いて霧が晴れて腑に落ちたのと似たような快感を味わっています。のめり込めたのはその快感が原因かもしれません。でもって「原因があってそれが結果としてあらわれる」ということで物語は成り立っているのだな、と書いてしまえばあたりまえのことも再認識しています。それが明解ゆえに(複数の登場人物の内面に心を抉られつつも)惹きつけられたところもあります。

バカにされそうな個人的なことを書くと(まだ続くのですが)この半年はいくらか仕事がハードでした。そんな中で(MXは1月から放映していたので)青ブタのアニメを視聴することや原作を読むことや映画を見に行くことを突っ走るためのニンジンのひとつにすることで、ハードな日々を乗り切っていました。美味しいニンジンがあること≒フィクションに触れる楽しみがあったことはこの半年、ほんとありがたかったです。

気圧の降下

数年前からたまに(なぜか右だけの)偏頭痛が午後から夕方にかけて起きることがあります。がまんできる程度のものなのでやり過ごせます。ただ地味にストレスです。以前仕えた上司が気圧が低いと似たような症状がでていたので、それを思い出してこれは気圧だろうと推測し、気圧を予測するアプリを以前から入れてて、退勤時に確認したら今日の午後は案の定「注意」だったようで腑に落ちました。

不思議なのは気圧が低下する予報がでていても症状が出ないときがけっこうあります。自分の身体でありながらそこらへんがよくわからなくてちょっと謎です。天気を変えることはできませんし気休めにしかならないのですが、梅雨が明けるまで買い置きのビタミン剤をしばらく服用するつもりです。

天ぷらそば問題

坊ちゃんの中に天ぷらそば4杯食べて目撃されるエピソードがあります。ずっとひっかかってたところで、たぶん前にも書いてるはずです。東京はそば文化圏で坊ちゃんが異郷の地で故郷を思い起こさせる食べ物をたらふく喰う気持ちはわからないでもないのですが、目撃された結果、教えている生徒にからかわれます。監視の目と異質なものへの嘲笑というかたちを変えた糾弾が描かれてるのですが、なぜ松山の生徒がそんなことをするのかが根っこのところでは私は理解できませんでした。それがずっと引っかかってた理由のひとつでもありました。

話はいつものように横に素っ飛びます。

つい最近、獺祭という酒蔵の人の書いた本をちらっと読む機会があって、その中で酒造好適米は一般的な米と異なる時期に田植えをする場合があるものの、水利の問題があるので地域の中で稲作をするのなら同じ田植えの時期の品種がよく、他の水田の品種と異なる酒造好適米を育てることの困難さにいくらか触れられていました。水田のない畑作地帯に育った人間からすると目からうろこで、秋田で「あきたこまち」が・千葉で「ふさおとめ」が多くつくられる理由が氷解してます。

話はさらに横に素っ飛びます。

農業というのはもしかして地域の気性を作るのではないかと疑っているのですが、これは発想が突飛かもしれません。でも思い出したのが天ぷらそば4杯で、坊ちゃんの勤めた学校の生徒のある程度が松山平野という他人と同じ品種を植えることが好ましい稲作地帯で、その結果他人と同じ行動をすることが好ましいとされる社会で育ったのなら、同質が是な社会では異質は非で、異質なものに対しての監視と嘲笑、糾弾ということを自然に行えることはなんだかとても腑に落ちます。引っかかっていたことのひとつが理解できています。

もっとも腑に落ちたところで坊ちゃんの問題は解決されるわけではありません。他人と同じ行動をすることが好ましいとされる社会に育たなかった(稲作のない東京育ちの)坊ちゃんは嘲笑などにとてもイラつくわけですが、そのイラつきは解決を産むわけではありません。でもイラつかざるを得ない。多数派と少数派の縮図でもありつつ容易に多数派は少数を軽んじることの例でもあると思ってるのですけど、それは今でも変わらないような気が。

イネの話をしようとしていたはずなのに、ズレちまってます。私が坊ちゃんを語るといくらか誇大妄想的になっちまいがちなのでここらへんで。

貧乏草の謎

☆をいただいてから存在を知って読ませていただいているブログがあって、そこでヒメジョオンという名の草について言及されていました。いつものように話は横に素っ飛びます。真ん中が黄色く周囲に白い花びらがあるヒメジョオンの写真には見覚えがあって、わたしが育った多摩ではなぜか貧乏草(びんぼうぐさ)と呼んでいました。

あくまでも小学生の頃に小学校の友人や死んだ両親に聞いた話で正確性は担保できないものの、なぜ貧乏草と呼ぶのかと云えば、ちゃんとしているところは草刈りをするのだけど余裕のない貧乏な家は草刈りをしないので貧乏草があることはきちちんと草刈りすらしない貧乏な家で、貧乏な家にあるから貧乏草という、と聞かされて育ってます。あることが不名誉と云われて育ってて、なので見つけたら抜くようにとどこの家の子供も要求されていた、はずです(すくなくともうちはそうだった)。その印象が強烈で・刷り込みっておそろしいもので、だからいまでも貧乏草を道端で見つけると反射的に脳内でなぜ抜かないのだろうと思っちまうことがあります。

でもいまになって冷静に考えてみると、なぜヒメジョオンはえてること草刈りしないことだけで貧乏に結びつけるのかいまいち腑に落ちないし、なぜ目の敵のように抜いていたのかちょっと謎です。

ひとつの仮の解としては多摩は畑作中心でサツマイモやホウレンソウが植えてある畑が私の子供の頃にはまだあちこちに残っていたのでその畑にヒメジョオンの種子が飛ぶと迷惑と考えてのことなのかなあ、と想像するのですが、解明する手立てはないので謎は謎のままなのですが。

キツネ色(追記あり)

春はあけぼのようよう白くなりゆくやまぎは、っていう文章があります。きっと繰り返して書いてると思うのだけど、東京都民なので銀座あけぼのと秋葉原ヤマギワは知っていても朝陽の出るほうには4階建てのビル相当の上野の山以外の山はありませんからわけわかめです。想像するしかないのですが、初見したころの10代の想像力には限界があります。続けて、少し明かりて紫立ちたる雲の細くたなびきたる、ってかいてあって、色的にうっすらと想像すべき光景は補足されてなんとなく理解できてきます。春はあけぼのの文章のおそろしいところは「なにが好みか」は述べても「なぜそれが良いと思うか」という記述はありません。ほかにも、闇もなほ、とか、霜のいと白き、とか好み(と好みじゃない光景)を単にひたすら書いてるだけです。ひたすら理由のない好みを読まされて挙句に麩菓子…じゃねえ駄菓子…じゃねえ、をかしとか、ワロス…じゃねえわろしとか云われても困るよなあ、なんでこんなもの読まされなくちゃいけないの?と清少納言に軽い殺意を覚えていました。

これから書くことはあてずっぽうです。

朝帰りというものを平気でする年齢を過ぎて、ある時長居ができなくて当然東京なのでやまぎわではない朝焼けのはじまる頃の街の景色を泊めてもらった部屋の玄関からエレベーターホールまでの間に彼氏とちょっとだけ一緒に眺めたことがあって、特段朝焼けの色が好きな色でもないけど理屈抜きに悪くないなあ、と思うと同時にその経験から、春はあけぼのの文章はもしかして逢瀬のあとの誰かと一緒に見た景色なのだろうか、と考えるようになっています。一人で朝焼けの前の景色を眺めていいねとつぶやく光景というのは考えにくく誰かと一緒だとすればあの文章はなんとなく腑に落ちるのです。誰かと一緒に見た良かった記憶や楽しかった記憶に基づくものというのは理屈抜きに好意的になりはしないかということに気が付くと、闇もなほ、というのも、月明かりの下でこれから起こるかもしれぬことに期待してるのではないか、霜のいと白き、ってのもむちゃくちゃ寒い朝に眺めてるだけではなくて(からっ風が無いぶん楽だと思うのですが)その霜を踏んづけてきゃっきゃ遊んでいるのではないか、と解釈するようになりました。また「なぜそれが良いと思うか」について記述するより「理屈抜きに〇〇が好きなわたし」についてはたぶん今も昔も人は容易に記述できます。人って幸福な記憶に引きずられて好みを形成して、それに浸って他人に言いたくなる生き物なのではないか。そう考えるようになってからは「なんでこんなもの読まされなくちゃいけないの?」感と殺意はいくらか減っています。減ってますが会ったら後世の人間の何割かはあんたのおかげで苦労してる!くらいのことは言うかもしれません。

はてな今週のお題が「わたしの好きな色」なのですが、ここで朝焼けのはじまる頃の空の色、ようようしろくなりゆくやまぎは、と書けば文学的なのですが、わたしは清少納言への殺意が消えていないので、そうは書けません。むしろパン粉をつけた2人分のタラのフライの白い衣が揚げてゆく途中でキツネ色の染まってゆく時間の変化ほうが「いとをかし」というか趣深いとおもっていて、得意ではないのですが揚げ物のキツネ色は好きな色であったり。

[追記]

はてなブックマークをやってないのでこういうカタチで返信させてください。

花粉症で眠れなかったとかならいざ知らず、春の朝早く起きてひとりで東の空を眺めるだろうか、「をかし」というだろうか、という違和感がずっとぬぐえないのです。

でもって、男が女性のところへ行く妻問い婚であったことを踏まえて誰かと一緒に居た幸福な記憶込みなのではないか、という仮の解を持っているのですが、もし漢詩万葉集とかに春の朝はよかろうもん?と褒める趣旨のものがあってそれを私が知らないだけで、清少納言がそれらをなぞってるとするなら、私の仮の解は崩壊します。ですからあんまり信用なさらないでください。

つか、清少納言はなぜこんな文章を書いたのでしょう。殺意が湧いてきませんかね、湧いてこないかもですが。

予測が外れることに関する言葉

なんでそうなったかはわからぬもののいつからかどちらかというと悲観的に物事を予測する癖がついてしまってて、前任者のアドバイスや現況を考慮すると次善の策も練っておいたほうが良いのかな、というのが抱えてる仕事に関してありました。

ところが今日になって悲観的予測が外れちまって次善の策も練らなくてよくなったのですが、こういうことがたまにあります。そのたびに他人に気づかれぬようにホッとするのですが、こういう事態はなんというべきなのか。ありえないことを予測していたわけでもないので「杞憂」とも違うし、ぽしゃったわけでもないので「当て事ともっこ褌は先から外れる」とも違うわけで。結果的にあれこれ考えたのが無駄になったので「取り越し苦労」なのかもしれませんが、違和感がありますって、それはともかく。

なんだろ、予測が外れてこんなほんとムダなあれこれ考える余裕が出来たことは素直にありがたかったり。