「おばかキャラ」って言う表現がいつの頃か市民権を得てて、気になてるのが「おばかキャラ」って認定されたらそのレッテルはいつはがされるのだろうか、ってことだったりします。それと、「おばか」と言う知識レベルだけでなく、世の中いつの間にか人の性格も簡単に把握できるような一言キャッチフレーズのようなわかりやすいものが横行してて、よく「切れキャラ」とか「天然キャラ」とかいうのもある。その人物の性格を汲み取ってうまくそうやってキャラ付けしているようにも思えるんすけど、ちょっとおっかねーと思ったりもしてます。
キャラ化による圧力ってあるんすよ。そのキャラに沿った行動をもとめられることってあるはずっす。面白いキャラ認定されるとほとんど面識の無い若い子から突然「面白いこといってよー」ってなことを無茶振りで云われたりするらしく、キャラを振られると、そのキャラへの同調圧力みたいのがあって、そこからずれると「つまんなーい」とか批難されやすいんだとか。芸人じゃないから無理だと思わん?ってな具合の話を聞いて若い女の子が出てくるような合コンの類から遠ざかってるこちらはそりゃきついねー、ぐらいしかいえなかったんすが。


個人的に体験してるのは「やさしい」キャラと思われてる節があって、そういうひとはこちらを「やさしい」キャラだと思って接してくるわけです。ところがこっちも人間ですし正直、仕事なんかでは妥協しないところはまったく妥協しませんから、常に「やさしい」わけではありません。めんどくさいときや時間がないときは相手の想定するキャラに同調する必要なんてないとおもうのでやさしくなんて振舞わないこともあります。でもって「やさしいキャラ」を前提に相手が協力を想定してたときにこちらが断ると「協力してもらえると思ってたので残念です」というニュアンスの台詞を吐かれたこともあります。何で常に向こうの都合のいいように善人面してなきゃならねーんだろう、なんてことをおもうんすけども。そうなってくると善人面だけを期待してた人は前ほど近寄ってこなくなります。たぶん私に関する情報がその人の中で「やさしくない」とか「わけわかんない人」と上書き保存されて警戒されてるのでしょう。そとづらよしおさんの仮面はめんどくさいし、そのほうが楽なので放置してるんすけども。


そもそも人間って「面白い」とか「やさしい」「天然」「おばか」なんてのでくくれるほど簡単に出来てるのだろうか、なんて根っこでは思うほうなのですが、マニュアルと同じで人間というのはたぶん事態がわかりにくかったり複雑なとき簡単化したものに頼るほうが楽なので、人間の理解も人によってはそうしちまうのかなーと思います。でもって、わかりにくいってことはたぶん致命的で、簡単にくくれないわかりにくい人間ほど「わけわかんない人間」「変な人」になっちまうのかなあ、と。


出来る限り相手の期待に沿うようなほうに動いたりとか、相手が想定してるキャラに沿ったりとかもしくは「いい人ぶる」ほうが、うまくいくこともあるかもしれない、とわかりつつ、時と場合によってはほんとめんどくさいので放棄しちまうことが大人になってから増えました。ひょっとしたら大人の対応ってのじゃないのかもしれませんけど。